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7. これが箱抜の核心だ
アワラ谷林道との分岐点からしばらく進むと、再びトンネルだ。約120m、今度は短い。
これを抜けると左側の視界が開けた。眼下にわずかに川面が見える。砂防堰堤が人工の滝をつくっている。
車道の標高は950m。見下ろすように写真を撮る。
![](https://assets.st-note.com/img/1718711430389-c2IdxjrIQT.jpg?width=1200)
右手が間名古谷だが樹木が茂り見えない
ここが箱抜のあたりらしい。地図を読むと、川面は車道から約75メートル下、関門部分の幅は約30メートルだ。
ここがまさに大白川本流と間名古谷(マナゴ谷・繊砂谷)との出合であり、箱抜の核心だ。光瑤は「白山裏山越の中で最も絶勝の寄り集った」と記した。
間名古谷の奔流が写った明治末の絵葉書では、手前に左手から大白川の流れが見える。これはどの地点から撮影したものなのだろうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1718711667520-VAw4ylrtW6.jpg)
住伊書店発行 No.39
明治末期
撮影者不明
手前左から流れ込むのが大白川本流?[1]
シナクラ(科倉)の吊り桟道があったのはこの真下あたりだろうか。箱抜桟道はその上流にあったというから、ここからは見えないはずだ。
雰囲気を味わいたい。が、断崖が険しく川原に降りられない。
シナクラの桟道は、間名古谷の奥で明治時代の中頃、採鉱が行われたときに造られたものらしい。江戸時代の天保12年(1842年)に書かれた紀行文には桟道は出てこないという。(つづく)
![](https://assets.st-note.com/img/1718716552103-umBxh3hg5h.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1719921676233-OBIQ4cVrJb.jpg?width=1200)
表紙写真は箱抜の関門
[1]この写真と同じものが『高岡新報』1明治43年5月22日3面に掲載されている。表題は「橡の木附近の急流(飛越探検記事参照)」。光瑤と石黒劍峯記者が春の白山の旅から帰るのが、5月23日か24日なので、その前に掲載されたこの写真は、別の時に撮影されたものとみなければならない。光瑤撮影の可能性はあるが、「橡の木」という地名とマナゴ谷の関係なども含めてさらなる検討が必要である。
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