16. 濛々たる水煙、曇るレンズ
石崎光瑤(25歳)が立山室堂で洋画家吉田博(32歳)と出会ったのは明治42年8月5日である。
吉田博はそれから3週間後に大日岳を経由して称名滝の滝壷にまで降り、写生した。その素描は明治43年9月2日の『富山日報』に掲載されている。ここではその詳細を記す余裕がないが、その新聞紙面を光瑤も当然見ていたことだろう。
今度は私が白水滝の滝壷に降りる。写生して写真も撮るぞ。
そういう野心を光瑤が抱いていたとしてもおかしくはない。明治40年から42年にかけての山旅は「連戦連勝」の成功体験が続いていた。[1]
現代の地図で測ると約50mの断崖である。滝見台から降りられそうな場所は見つからない。無謀な下降だ。114年前、光瑤たちはいったいどこから滝壷に下りたのか。
時は明治43年5月14日に戻る。雨が上がった。光瑤一行は白水滝の滝壷へ下降をはじめた。
草木や枝などにすがって斜面にうつ伏せになって降りる。石黒記者が9メートルほど滑落してあわやという場面があったが、光瑤は慎重だった。
光瑤は早速カメラを組み立てて撮影を試みた。ピントを定めているうちにレンズが曇る。何度もぬぐって撮影を繰り返した。
同行者の石黒劍峯記者はこう書いている。
この旅から帰ってすぐ、光瑤が書いた書簡が『山岳』に出ている。
文面からは1枚ぐらいは写っているはずという自信が感じられる。[3]
それにしても白水滝の2つの魅力が、光瑤の紀行文によって浮き彫りになっている。
それは、四季折々の衣装をまとうような柱状節理の岩壁(衣ヶ岩)と、圧倒的な水流が滝壷に叩きつけることによって霧のように舞い上がる水煙である。
2024年5月のドライブ旅で撮影した青緑色の滝壷は、白水滝の本性ではなかったのだ。(つづく)
[1]光瑤以前に白水滝を探検した人物として、山岳会会員の大平晟(1865-1943)がいる。大平は明治40年に白水滝と称名の滝を相次いで訪れ、いずれも滝壷から実際に滝を見ている。「加賀白山の裏山降り(北陸三山跋渉記の四)」『山岳』第3年第1号(明治41年3月)などの紀行文に詳細が書かれているが、写真や絵はない。光瑤は当然、大平の紀行文を読んでいて、自身の紀行文(『山岳』第4年第1号)中で大平への共感を記している。ただ、それはシナクラ桟道周辺の記述で、なぜか白水滝に関連しては触れていない。とすれば、滝壺での写生撮影という挑戦を光瑤に決意させたのは、同じ画家である吉田博の称名滝であったと推論することができる。
[2]『山岳』第5年第2号の文章には、末尾に5月23日の日付がある。おそらく、山岳会の編集者、小島烏水に送った書簡だったのであろう。
[3]『山岳』第5年第2号の光瑤の文章は、写真撮影への執著が感じられる内容である。つまり写真は単なる趣味を超えたものなのである。
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YouTube動画のおすすめは、阿武悦司さんの「夏の白水の滝(岐阜県白川村)2016」だ。的確なフレーミングで、映像編集を最小限にとどめてあるので、鑑賞するのにほどよい。全体に彩度が抑えられているが、実際に夏の終り近くならこのくらいの濃さでもかまわない。BGM入りの綺麗なドローン映像を見慣れた人にも、ぜい肉をそぎ落としフィックスで撮られた映像をごらんいただきたい。
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