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感情を大切にしたいから「感情的」にはならない

とにかく「怒鳴らないようにしよう」、
と、最近ふと思ったのである。

いや「怒り」という感情も場合によっては必要、というのは、
ここ10年くらいで学んだ大事なことの一つ
なのではあるのだが。
(昔は「とにかくなるべく怒らないようにしよう」と思っていた。
――まあ、必要以上に怒らないほうがいいのは、今も変わらず思っていることではあるけれど。笑)

怒鳴ると、その「怒りの内容」は、人に伝わらなくなる。
その声色を察知した時点で、人は耳を塞いでしまう
んだな、と。
で、それで自分は本当にスッキリするの?と。
感情をぶちまけているだけで、
伝えるべき相手に伝えるべき内容がまるっきり伝わってないのに?と。

――いや、
実生活で声を荒げる場面は、自分、ほとんどなかったと思いますよ?
(ホントに性格的にそれは得意ではないです。笑)

でも、こういう場所で書く文章だと、
「怒鳴り声」になってしまうことは、自分でもあった、というか、
実生活より、「怒鳴り」「叫び」になりやすいのが
例えばこうしてネット上に上げる文章であるなー、と。

同じ怒りを共有している方々には
「そうだそうだー」となることはなるのである。
そして、自分でも、
そういう「共感」ドコロだけを、ついつい、
中心にして、目につきやすく「設定」しまうのが、
ネット上だったりする。
――つまり、自分と同意見の人との
その予め同じである意見の「共有」ばかりに、
労力を費やしている状況になってしまう。

しかし、その怒りの内容について、
まだ特に考えを持っていない方々は、
または既に反対の立場の方々なら尚更、
少なくとも「怒鳴り声」を耳にした時点で、
言葉の内容に耳を傾けることなく、
「わあっ!」「イヤだイヤだ」と耳を塞いでしまうだろう。

人には
「他人の感情に共感したい」「心を誰かと一緒に震わせたい」
という気持ちは元々あるものだと思う――のだが、
「喜」「楽」なら、概ね何でもそういう気持ちが湧いてくるものでも、
「哀」、ましてや「怒」となると、
そこに「自分の感情と共有できる何か」が先に認められない場合は、
なかなか「共震をしよう!」とはなってくれない
だろう。
それは、まあ、(自分を省みても、)当然そうなるものだろう。

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喜怒哀楽の中で、いらない感情は実はない
というのが、最近の私の考え方だ。

心と感情は「時差」がある場合も多い。
自分でも、自分の心の声を、案外すべて拾えているものでもない。
だから、外側に感情として出てきたそれは、
自分の心の中を読み取る大事な「センサー」であるとも私は思う。
――いや、まあ、
「哀」も「怒」も、ないに越したことはないのだけれど、
でも自ずとなってしまったそれは、
直面した様々な現実に対し必要だからなった
「生理現象」みたいなものなわけだから、
それを無理に抑え込むのはよくないだろう。
負の感情だからといって、
「哀」も「怒」も「表出できなく」してしまったら、
排泄されずに、「悪い何か」は、
体内に溜め込まれて、そしていずれ何か「まずい形」で
身体の外側に出てきてしまうと思う。

でも、人と人との間で生きる、私も「人のはしくれ」として、
排泄物を、むやみやたらにところかまわず形構わず
「ぶちまける」こともなかろう、と。
つまり、特に「怒」という感情については、
それにスッポリドップリ「飲み込まれない」ようにはしたい
なー、と、思っているのである

――いや、これまた、難しいです。言うだけなら簡単です、そりゃあ。(笑)

でも、難しいものほど、殊更に、
「その感情に飲み込まれるのは避けたい!除けなきゃ!」
と、強く思っておくくらいで、ちょうどいいバランスなんじゃ?って。
(自分が自分を常に俯瞰の位置で見ていられたら、理想的なんだけどねー。
……そんな器用なこと、できるのか、俺に??っていうね。笑)

いや、世の中のいろんなことに、やはり私は今も、
怒り続けてはいるんです。

ですが、その「怒り」の相手を
――例えばそこに「世間」という大物が含まれているとするならば尚更、
「何とかせねば!」と本気で考えるなら、
感情的になった時点で、
自動的に共震してくれる「予め自分とはっきり同意見の人」以外には
言葉は届かなくなるだろう、と、考えておくにこしたことはない。
――つまり、
自分の意見がどんなに正しいに違いないと思えても、
だからそれを多くの人に聞いてほしいのだと願っても、
まだまだその意見が世間に浸透していない状態のものなら、
怒鳴ったり叫んだりした時点で
「それ以上は浸透していかない」となるのが今の世の中

という気がしてきたのです。

切実に「聞いてくれ!」と願う言葉も、
感情に任せて「ぶちまける」をしてしまったら、
「ただの憂さ晴らし」にとられてしまう可能性は高いなあ、
と、感じたのです。

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