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学校が嫌いだった人は教師にならない

私は子どもの頃、教師というものが嫌いだった。

学校というものに馴染めない、弱い、そんな子どもの気持ちのわからない、わかろうともしない教師たちが嫌いだった。

そんな私は教育の道に進んだけれど、結局やっぱり、学校の先生になろうとは思わなかった。


教師というものは得てして、学校に対して良い感情を持っている人間ばかりがなる。学校という環境に適応することのできた人たち。

当たり前と言っちゃ当たり前なんだけれど。

だから、所詮人間は、自分の持ち合わせていない感覚は理解できないから。
たとえ理解したとしても共感はできないから。

私のような子どもの気持ちが理解できない教師たちで、学校現場は溢れていくんだろう。

学校に嫌な思い出ばかりだった人間こそ、教育現場には必要だと思ってる。色々な感覚を持っている人たちが、教師の中にはいるべきだ。
そうじゃないと、いつまで経っても私のような子どもの気持ちがわからない人しかいない学校のままだ。

そう思ってる。

私は子どもが好きで、この世界の子どもたちが1人でも多く幸せに過ごせるようになって欲しいと思う。

それでもやっぱり、学校の先生にはなれない。なりたくない。

結局そうなんだ。

だってどう頑張ったって、学校というものが嫌いなんだから。


私は学校の教師という道を選ばなかったけれど、教育系の学部にいたために、「私の担任たちもこんな風に勉強してたのかな」なんて、教師側の視点も覗いた。

子どもの頃は知らなかった学校現場の仕組みについても学び、「これは先生も大変だわ」と思ったりもする。

だからと言って、過去の記憶の中にいる教師たちの言動を正当化することは、全くできないのだけれど。少しだけ、広い視点であの教師たちを取り巻いていた状況を捉え直すことはできた気がする。

要因はシンプルなものではなく、とても複雑で、厄介なものだったのだろう。


私の大学の講義の中で、「教師は学校という環境の中で立場の強かった人ばかりがなる。立場の弱かった人こそが教師になるべきなのに。」
と話してくれた教授がいた。

私がずっと心の中で思っていただけの意見を、これから教師を目指していくであろう学生たちに話す人がここにはいるのだと思うと、ここから教師になる人たちはもしかすると少し違うのではないかと希望を持ったりした。

嬉しかった。

しかしやっぱり今見えてきている現実は、そうとは限らなくて。


大学時代一緒に勉強していた人の中には、小学校の先生になった人がたくさんいるのだけれど。

私が「この子にこそ教師になって欲しい。きっと子どもの気持ちに寄り添える人だ。私が子どもの頃だったら、こんな人に担任でいて欲しい。」と感じていた子ほど、精神的に追い詰められて、すぐ辞めることになってしまう。

結局教師側になっても、一緒なのか。と思ってしまう。


そして力強く教師を続けている友人は、精神的にダウンして年度途中で退職した友人の話を聞いて、「は、途中で!?」と、ありえないというニュアンスでその子に言い放つ。
そういえばこの子には、「好き嫌い多い人って、人に対する好き嫌いも激しいから嫌い」と言われたことがあったなと、ふと思い出したりもして。


もちろん私の周りのほんの数人の話ではあるのだけれど、それでも、
「やっぱりそうなのか」と諦めたような感覚に陥ってしまった。

どうしたら、子どもたちだけじゃなく教師も、色々な感覚を持つ人が共存しやすい学校になるんだろう。もしかすると、無理な話なのかもしれない。


そうだとしたら、その空間から抜け出せるようになるしかない。

他の場所を生み出すしかない。


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