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親は親。子どもは子ども。ー元不登校HSPー

親は親で、子どもは子ども。
全く別の存在だ。

私は、「血は争えない」という言葉が嫌いだ。

というより私は、
血は争うよ。血に抗うよ。親に似ててたまるか!!と思ってる。


「血は争えない」とは、
「子どもが父母から気質・性向を受け継いでいることは否定しようがない」
という意味だ。

もちろんそれもわかる。生物学上、否定はできない。


でもだからと言って、子どもの性質は全部、親のどちらかから遺伝したものだと決めつける会話には嫌気が差す。

「〇〇の大雑把なところはお母さん似で、でも堅実なところはお父さん似だよね」みたいな。

そんなのどうとでも勝手に解釈できるのに、
無理やり「母」か「父」の2つの器に収めようとされてる感じがする。


あなたたちにない性質を、私は持ち合わせていないと思っているんですか?

あなたがたから生まれたからといって、私の構成要素はあなたがただけだとでも??


人間の性質は、生得的(生まれつき)な要因と、環境要因の両方から作られていくといったのは誰だったか。
まあ実際そうとしか考えられないわけだけれど。

環境要因の中には「家庭環境」というものがとても根強く存在しているからこそ、生物学的な「遺伝」というものだけじゃなく、その親と一緒に長い時間を過ごすという環境要因も相まって、親が子どもに与える影響は甚大だ。


言葉遣いの荒い親の子どもは、言葉遣いが荒くなりがちだとしても(実際よく見る)、
それは「遺伝」ではなく、日常で一番耳に入る言葉がそれであるから。
一番身近にいる模倣対象がそれであるから。
という可能性が高いと思う。

言葉だけを聞いて、「気性の荒い親の遺伝で、子どもも気性が荒い」などと判断するのは早計だと思う。



ここまで書いてみて、あれ、親の言う「〇〇に似て」と言うのはもしかすると、「一緒に過ごしているうちに似てきたね。」という意味も含んでいるのか?と思い始めた。

そうだとすると、「母と父どっちに似ているのか」論争は、
一緒に過ごしている身近な2人のうち、どちらの性質に子どもが寄ってきたのかという話になって。子どもには選択肢があるわけで。

意識的にでも無意識的にでも、結局その性質になることを決めているのは子ども自身の性質ということになる。

ならそれは、環境から吸収した私の個性だ。



私は、私の選び取った、掴み取った環境の中で、自らの意思で吸収するものを取捨選択して自分を作り上げる。

私は私だ。



そんなことを言ってるんだけど、
ふとした時に、「あれ、これじゃ母親と同じことしてる」とか、「これ似てる気がする」と思うことがある。

それは本当にすごく些細なことで。

雑に書いた時の漢字や数字がちょっと母の字に似て見えたとか、人を好きになった理由がちょっと近かったとか、カラオケで高得点が出るのが母の十八番だったとか、欲しいと思ってたものを母がすでに買っていたとか。

その度に、すごく嫌気が差すというか。自分の中に毒気が入っている気がして、早く、早く、吐き出してしまいたい。

自分の中の血を洗い流してしまいたい。


これらだって本当は、別に母に似たとかではなくて、私の周りにあるものの中から私の好きなものを取捨選択した結果、残った要素のほんの一部だし。

これらは私の嫌いなところではないし、母を嫌いな理由ではない。

それでもなんか嫌だ。


そして最近1つ、自分が嫌いだと思っていた母の要素を、自分も持ち合わせているのではないかと思う部分が見つかって。

嫌いだ。大嫌い。

そんなところは早く、自分の中から消し去ってしまいたい。



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