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自由って不自由?

自由って不自由なんだよね

と誰かが言っていたのを聞いたことがある。

何も制限がない中で「何をやってもいいよ!」と言われると、逆に何をやればいいのかわからなくなってしまう。
「なんでもいいから話して」と言われると、なんの話をすればいいかわからなくなって、なかなか話し出せないものだ、と。


自由を愛する私にはあまりピンとこなかったのだけれど、最近になって「確かにそうなのかもしれない」と思うことがあったので、書いてみようと思う。

この記事とは矛盾するようで矛盾しない、「選択の自由がある」ことのもたらす幸福感についてはこちらの記事で書いています。


大学・大学院での研究


初めにそれを感じたのが、研究テーマを決める時。

私の所属していたゼミでは、研究テーマを決める際の縛りは「子どもと算数・数学に関わること」というのみだった。
いや、もっというとそれすらも絶対の縛りではなくて、「教育」の関わる範疇であればなんでも提案できた。

私はとても興味・関心の幅が広い。というか、興味のないことというのがまずないくらいなものだから、「自分の興味でテーマを決めてね」と言われると、それはそれは膨大な選択肢が浮かんでしまう。

自らの経験を踏まえて不登校の児童にスポットを当てることもできるし、保育士や幼稚園の先生に関する内容でも、幼児の教育環境に関することでも、生まれつきのナンバーセンス(数的感覚)の遺伝からくる差異にも興味があるし、時間の感覚がどのように習得されていくのか、乳児〜幼児の愛着形成も気になる。と、今パッと思いつくだけでもどんどん出てくる。

「子どもの数の感覚の発達」というところまで決めたところで、その中でも挙げきれないほどの研究テーマが考えられる。

長い間迷いに迷って、思いつく大量のテーマそれぞれの方向に走っては、途中でどんどん分岐して広がり続けて、収集がつかなくなった。

大学・大学院での研究の中で、この「ゴールを見据えられない期間」が1番しんどかった。

そんなとき、先輩の研究している内容を一緒にやらないかという話が来て、聞いてみるととても興味のある内容だった。もちろん他にもこれと同じくらい興味のあることはたくさんあったのだけれど、このテーマには外部からの引力(研究を一緒にやってほしいと思われている)があった。

そうして、「先輩の研究に加勢する研究テーマ」という縛りが与えられたことで、とても気持ちが楽になり、やっと先を見据えて動くことができるようになった。



生き方・働き方の自由


最近になって「自由すぎることの不自由さ」を感じていたのが、働き方ひいてはこれからの生き方に関することだ。

私は今とても自由で、絶対にこれはしてはいけないとか、これをしなければならないとか、全くといっていいほどない。


それでも強いて言うなら、「自分に負荷をかけすぎないこと」
かけすぎると自分が崩れてしまうことをわかっているから、ある意味これを縛りとして毎日を生きている。

あとは、自分の経験からこれは欠かせないと思っていること。
「会いたい人には会えるように」「行きたいところには行けるように」


でもこれらを満たす生き方ってきっといくらでもあって、というか、これらを満たせる生き方を探しているわけではあるのだけれど。
どの選択肢を取ればいいのかなんて、やってみるしかないところもあって。

結局、今どの選択肢を選んでみるのかは、すごく自由。


色々な道のりを考えて、どうするのがいいのか。臆病になっている私はどの道に行くのも怖かったりするのだけれど、どこかには進まなければ。ほっといたら勝手に道がどんどん狭くなって、どこにも行けなくなりそうだから。


そんな中で、私の仕事や生き方に対する希望を割とはっきりと話してくれた人がいるのだけれど。その希望に沿うとしたら、これまで考えていた選択肢のうちのいくつかが消える。その消える選択肢を取りたい場合には、希望には沿わないことを選ぶことになる。

そこで、仮に希望に沿うことを選んだとしたら、自分はこれからどう動くことを選べるだろうと考えてみたところ、急に視界が明瞭になって開けた感覚になった。

選択肢が狭まるはずなのになぜか選択肢が増えたような、自由な感覚になった。

今希望に沿うかどうかを選択はできないとも思ったけれど(その人もいつか違うことを言いだすかもしれないし)、じゃあこの先どちらでも選択しやすいようにするとしたら(つまり「先で選択するため」という縛り)どう動くのがいいだろう、と考えてみても、やはり以前より道が照らされて見える感じがした。


どちらの話でも共通しているのが、自らの選択の結果生まれる縛りであること。研究テーマについては、先輩の研究に携わるかどうかは決して強制されたものではなく、選択することができた。仕事に関しても、何か強制力があったわけではなく、1つの選択をすることが結果として他の選択肢を狭めることにつながるだけだ。

それは結局、自分の選択。


そう考えると、自由の中で何かを選択するときに苦しいほどに迷ってしまうのは、数多くの選択肢の中から急に1つを選ぼうとするからなのではないだろうか。

当たり前といったら当たり前だけれど、100通りの選択肢が存在するとしても、ある条件を満たす選択肢で考えると30通りしかなかったりするもので。


そしてその「ある条件」は、まさに悩んでいる内容とは全く別のところからひょっこり現れたりするかもしれない。


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