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清水の舞台から飛び降りる方法??

挑戦とは?

まずその前にひとつ言えることは、
挑戦するべきか?しないべきか?
迷った時、相談相手を間違えるな、
ってことだ。

つまり
今の自分に相談してはならない。

3年先くらいの自分に相談することだ。

それには日頃から自分と向き合い続ける必要がある。

その上で、個人的には
挑戦とは?
今の自分という枠を超えようとする行為、そして報恩そのものだ。

今のあなたがあるのは間違いなく、あなたの成長を支えてくれている多くの人のお陰だ。

成長は想定できる枠の中では決して生まれないことから、挑戦する姿勢そのものが成長ということになる。

ってことは成長を支えてくれる方々に恩返しする唯一の方法は文字通り成長することだ。

成長してお返しすることだ。

だとしたら、挑戦とは結果がどうであれその姿が即ち恩返しってことだ。

それとは逆にもう分かってるは、私にそれができるわけがないと同じくらいヤバい。

挑戦は、わかる/分からない、できる/出来ない、しんじられる/信じられない、という軸を基に挑戦するかしないかを決めるものではないからだ。

誤解を恐れずに言うとやりたいか/やりたくないかでもない。

そうすると清水の舞台から飛び降りる方法?
みたいにGoogle先生に尋ねる人が出てくるんだけど、清水の舞台から飛び降りる方法はございません!飛び降りるしかないんで。

(実際に世界一高い233メートルの高さからバンジージャンプをマカオタワーで体験した時、飛び降りるしかなかった!あっ!ただスリーステップに自分を意図的に乗っけた。1.申し込む 2.上に上がる 3.飛び降りると。とにかくこの手順通りにするだけと、心で何度も唱えながら笑)

ただ、ここで話が終わったらフツーだから、
もう少し探ってみよう。

もしも、そんな方法があるとしたら
おそらく一つしかない。

極めようとすることだ。

清水の舞台から飛び降りるとは随分距離があるように思われたかもしれない。

でもおそらくこれしかない。
本来無いものを無理くりあるという前提で話すとなると余計にこれしかない。

では、極めるってことの意味は?

目の前に存在する。
目の前にしか存在しない。

目の前のことを極めようという心構えなくして、他でいつか何かを極めようたってそうはいかない。

また、極めるってことは
一貫性の話だ。

実は対象やジャンルの話ではない。

目の前の人に、目の前の事に心開き、一生懸命関わることだ。
それしかない。
それをし続けるしかない。

そうすることでしか飛ぼうと思えばいつでも飛べる自分というものには出会いえない。

そうそう、自分が見えていないことを教えてくれるのは誰?

苦言に聞こえるかもしれない。
耳に痛いことかもしれない。

自分が見えていないことを教えてくれるのは誰?

だからね、その人を大切になさい。

知識を持てば持つほど人間性が問われる。

人を見下すのに使うか、知恵に変換することで
誰かの役に立とうとするか。

これは努力も同じ。

努力すればするほど人間性が浮き彫りになる。

誰よりも努力しているというその自負が
妥協的且つ独断的になるか、より極めるという姿勢を崩さずに持てるか。

つまりは、やはりこの問いに戻ってくる。

どんな人間になりたいか?
という問いに。

そして、自分と向き合うってことは、とことん向き合うってことは最終的に主語が、家族とか
お客様とか、自分以外の誰かになっていくはずで、いつまで経っても主語が自分だとしたら、結局まだ自分と向き合えてないって
捉えた方がいい。


だってあなたの大切な人がどんな表情なのか?そこにしかあなたは現れないんだから。

By オレの殴り書き

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