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トクトクトク

博覧強記は人を聡明にする横の学問、
深く道理を探求して奥義をわきまえることは、
人格を磨き上げる縦の学問。

言志四録より

よく
クライアントには、研修ちゃいますよと言う。

ビジネスど真ん中だからと。
申し上げるんだけど、正確に言えば人生ど真ん中を扱う。

研修とかコンサルタントは
所謂横のサポート。くれぐれもそれが悪いとか言ってる訳では無い。

で、コーチングちゅーか
オレがしてることはここで言う縦のサポート。

そして、あなたよりあなたの成功を確信してる人はすべてメンターって観点は持っておいて欲しいのだけれど、

そのメンターとの
関わりを通じて縦の学習を深めていって欲しい。

勿論
オレは何の根拠も持ち合わせてないけれど、
あなたより、あなたの成功を確信しているから、そのメンターリストの一番上にはオレの名前を書き込んどいてくれ。

為す無くして為す有る、之を誠と謂い、
為す有りて為す無き、之を敬と謂う。

つまり、大げさに何かやってやろうとしてる訳でもないのに、その人が登場するといつの間にか問題が解決しているというのが誠であり、行われた仕事が、あたかも何もなかったかのように行うことが敬である。

誠とか敬とかは、
今、疎遠になりつつある言葉。だったとしても、否、だからこそ向き合う価値があることになる。

そして思いっきりこれを現代風にアレンジして問いにすると、

どんな当たり前に
心開いて感謝したか?
たとえば、オレが口を開いていないとき、
オレの態度は、オレの許可なく、周りに何をおしゃべりしているか?

独りでいるとき
心を欺くようなことはしていないか?

独りでいるとき、
自分の影に恥じるようなことは
していないか?

となり、

これが問えるようになるだけで
徳ある人生に練上がるのだとおもう。

それを踏まえて頂いた上で、ぶん投げたい今日のテーマはこちら。

部下が自らやる気になるまで待つ。
強制にならないように注意を払う。

組織においてこの観点は大切だ。
待てるとは信頼そのものだから。

しかし、
もう一歩踏み込みんでとらまえたい。

嫌々ながら、ある意味仕方なく始めた。
ところがやり始めたら楽しくなった。
あるいは、嫌々ながら始めて、
それでもなんとかやり切り、後から振り返ると
その嫌々ながらやり切った経験そのものが
今の自分を形成していた。

なんてことは誰にだって数えきれないほどあるじゃないか。

ってことは
リーダーは、部下の
「一時的な」嫌々ながらのその態度に
気を配るより、
むしろ、
その先の楽しさややり甲斐、掴める何かに気を配れるかどうかじゃないのか。

そこに気を配れないとすると、リーダー自身が
実は嫌々やっていて、その先にあるやり甲斐を確信できていないか、部下を信頼していない、
つまり、私の部下は仕事のやり甲斐を見出す能力なんてない!って
見ているかのどちらかだ。

もしも、仕事を楽しめてるあなたなら、

一見大変な仕事だとしても、つまり、頼むと下手したら部下に嫌われる!
まして、部下に嫌々やらせても!

そんな一時的なことに躊躇してる暇はないはずだ。

嫌々やらされているように見える状態だったものが楽しみ、やり甲斐に、本人の創造性が発動して、変わることを待てる。

つまり、確信している。
それが信頼だ。

成長しないのではなく、相手の成長を奪っているのは自分かもしれない。
そこに立てたなら、そう、あなたも自分を信頼しているからこそ、そこに立てたってことなんだ。

By オレの殴り書き

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