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超ドS

今日は計画についてキミと話をしよう。
キミは今どんな計画の基に生きているだろうか?
どんな計画にも最初の一歩があるわけだが、そして、千里の道も一歩からという言葉があるが、実は千里の道は一歩からではない。

では、どこから、何からスタートするのか?

靴の中の小石を取り除くことから千里の道は始まる。

靴の中に小石がひとつ入ったまま歩いてるとこ
想像してみればわかる。
あるいは、別の喩えなら小骨が喉にひっかかてるとこ想像して欲しい。その道のりは如何に?

その煩わしさは、キミからビジョンを引き剥がすだろう。その煩わしさはキミからキミの楽しむというチカラを無きものにするだろう。

キミの人生における小骨や小石は何か?

初めはこの問いからスタートして、それ以降定期的にこれをやらなければならない。

さぁ、それを取り除いたら、いよいよお出かけでござる。

外に出ると選択の連続だ。それが人生だという。
でも実際のところは、人生とは選択の連続だという表現は一部分的であって生きるを遍く表現できているわけじゃない。

本質的に生きるとは自分自身を生きるってことになる。

それ以外生きられないのだから。どの選択をしたとしても、それは派生物であって、〝自分自身を生きたってことを意味してしまう〟。

そもそもキミはキミであることを感謝しているのだろうか?

その感謝有る無しは、自分自身を生ききれるか?を大きく左右し、自身の運に最も影響を及ぼしていることは言っておく。

だからキミがキミであることにもっと感謝すべきだ。

くどいようだが、生きるとは自分自身を生きるってことを意味しているのだから。

自分自身を生きるしかないというのが真理ならば、オレたちは、なれる最高の自分になるためにしか生きられない。

分かりる?これ重要。試験に出します。

ところが人はその計画実行過程の中で、自分に批判的な人間と距離を置こうとしてしまう。本当に自分の世界に閉じこもる行為が自分自身を生きるってことになるのだろうか?
それが本当になれる最高の自分になる道に通じているのだろうか?

Beyond reasonable limits.
いつだって合理的限界はさっさと超えて行かなければならない。合理的ってやつは狡賢い奴なら必ずたどり着く場所だからだ。

自分にとって心地がいい人間を通じてだけでは自分が何者か?は見えてこない。自分に批判的な人間を通じて初めて自分という者が何者か?がよく見えてくる。
自分自身を生きるには自分が見えていなければ生きられない。

そして、残念なことに、(それが見えていようがいまいが)人生には何度か答えを必ず出さなければならない問いに遭遇する。そうして、また自分自身が何者か?を知れる機会になる。

では、それはどんな問いか?はだから考えるに値するでしょう。

もし、この記事をキッカケにその問いを芽生えさせられたなら、もう少し違う視点で生きるってことを今日は観てみよう。

梁凱恩曰く
人生は待つことの連続である。
仕事をしている人は、ランチを待ち、
退社の時間を待つ。
週末や連休を待つ。
授業を受けている学生は、食事を待ち、放課後の時間を待つ。
たくさんの人がバスを待ち、年末のボーナスを待つ。
親は子どもの成長を待ち、妻は浮気している夫の帰りを待つ。
人生は限りなく待ち、待つ、果てしなく、希望もなく、待つ。

こうして考えると多くの人がまるで死を待って生きているかのようじゃないか。

何を待ってきたかがその人の人生の輪郭を間違いなく現しているってことになる。

では、何を待つべきか?

ちなみにオレはクライアントと共に進化(変態)を待つ。否、忠犬ハチ公のようにそれを待っている。また、クライアントと共に七難八苦を待つ。艱難辛苦を待つ。困難よ、Come on。そして、それらがオレたちより先にGive upするのを待つ。

ここで孟子のぶっ飛んだ人生観を共有しておこう。凄まじく強烈な人生観だ。

孟子曰く
天将降大任于斯人也、
天の将(まさ)に大任(たいにん)を是の人に降さんとするや
必先苦其心志、労其筋骨、
必ず先ずその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨を労せしめ、
餓其体膚、空乏其身、
その体膚(たいふ)を餓えしめ、その身を空乏(くうぼう)にし、
行拂乱其所為、
行いには其の為す所を払乱(ふつらん)せしむ。
所以動心忍性、曾益其所不能
心を動かし、性を忍び、其の能(よ)くせざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり。

ざっくり言えば、天があなたに偉業成す力を与えようとした時、とことん苦しめる。あなたの意志とは食い違うことを精神、体、生活、やることなすことすべてに試練を与える、と。その後、大人物にするんだ、と。

やることなすことに試練ってあーた。
天もどうやらオレと同じ超ドSらしい。

キミは何を待ってきた?
これからキミは何を待つ?

ここらで変な提案をしよう。

今後計画を立てる時、計画に何を待つことになるか?を予めぶち込んでおこう。

持つべき計画とはそういう計画であるべきだってことが理解できたはずだ。

こう言うとどうせ計画を立てても計画通りに行かないという人間がいつも存在するわけだけども、だからこそ計画通りに行かないこと(何を待つか、つまり試練)も計画に織り込んだらいい。

上手く行かない計画を立てて(何を待つかをきちんと明らかにして)上手く行かなければ(それを待てば)まさにそれは計画通りだ。

ただ、今回伝えたいのはそこでは無い。

計画を立てる上でさらに大切になってくる話がしたい。
それは、自分を楽しくさせる計画という観点だ。

どうやら多くの人間は驚くことにそれを持たずに生きている。自問自答してみて欲しい。

果たして、キミの持つ計画それ自体がキミを楽しくさせるチカラを備えているだろうか?

そうでない計画なら今すぐに破り捨てよう。
それはキミが作った計画ではなく、誰かに作らされた計画なのかもしれない。

つまりは、まずは靴の中の小石を取り除くところから始めたらいい。

結びに確かヘルマン・ヘッセの言葉だったと思うけど、キミに贈るよ。

自分自身に生きよ。そうすれば世界は美しい。



By オレの殴り書き

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