見出し画像

起点

惰性とは言い換えるとビジョンの抵抗者である。または夢の抵抗者である。つまりは目標の抵抗者である。

故に惰性とは
変化を嫌う態度のことである。

そして、また、オレってこういう人間だからさとか、私はずっとこうしてきたからとか、自分を限定しているのは他でもない、自分である。

キミの考え方に問題があります。

こう言われて感激して、それを歓迎する人はほとんどいない。

でも、だからこそ僕たちは、自分の考え方には問題がある、って考える必要が常にある。

なぜなら、いつだって今の考え方では今得ている結果しか得られないからだ。

(ちっぽけでチープなビジョンまっしぐらの真っ只中にあるなら、それ以上言うことは無いが。)

ここまで同意できたとして、
問題はここからだ。キミに突きつけてみたい。

果てしないビジョンを掲げ、
100を持つ者を集めて、その100の中で成果をあげるチームがすごいのか?

まだ1を持つ者を集めて、その1の中ではなく、その1をどうにかこうにかして、5や10にして成果をあげるチームがすごいのか?

上っ面だけで判断するとしたら、それこそ僕たちの眼はふつーだ。

だがしかし、さらに問題はここからだ。

まず100を持つ者たちを集められるなら、確かにそのチームには、ある魅力が存在しているに違いない。

そこに、間違ってまだ1を持つ者がそのチームに入った時、どっちがすごい者なのか?

つまり、一昨年も去年も今年も、持てる100の中で100を出す者と、一昨年は1を持つ中でそれを5にして、去年は5を持つ中でそれを10にして、今年は10を30にした者では、一体、どちらが偉大だろうか?

変な質問なのは分かっている。
でも、あえて問いたい。

100を持つ者たちの中で、
まだその半分も出せてない者をキミはどう判断するだろうか?

これに迷わずもし答えられるとしたら、
一度思考プロセスを見直した方がいいかもしれない。

よくいるでしょ?
かなり変化球の例だけれど、生まれた誕生日から毎年毎年自分の歳をとっていくことに段々溜め息つくみたいな思考。歳を重ねれば重ねるほどがっかりに近い感覚。

でもさ、思考の起点次第では全く別の世界が観えてくるわけ。
生まれた時を起点に世界を扱えば、そりゃそういう結論になってもおかしかないけど、でも未来を起点にして今の自分を扱うとどうなる?

未来の自分から今を見れば今が常に一番若いわけよ。そこを起点にとらえればいつだって今の自分が一番若い!!

〝一般的な〟カウントの仕方というか、一般的な起点を疑いもせずに人生に活用してると、かなりもったいない生き方になってるかもよ。

で、話戻すというか、再度問いたい。

一昨年も去年も今年も、持てる100の中で100を出す者と、一昨年は1を持つ中でそれを5にして、去年は5を持つ中でそれを10にして、今年は10を30にした者では、一体、どちらが偉大だろうか?
100を持つ者たちの中で、
まだその半分も出せてない者をキミはどう判断するだろうか?

節穴でないことを願う。

これらは起点やモノサシの話だ。

必要とされてるとかされてないとか、ためになるとかならないとか、そんな軸じゃなく、
ただただそばにいたい、一緒に生きていきたい、それで十分じゃないか。それはビジネスだって同じだ。

生まれてきたこと、それ自体がすごいんじゃ無かったのか??感激、感涙ものだったんじゃねーのか??

いつのまにか、どこのどいつがつくったかさえもはや分からない価値観で、人を計り、比較し
優劣みたいなんつけて、そんなんもんに侵食されっぱなしで、鈍感になってるとしたら、本当に大切なもん失ってくぜ。

で、ここらでオメラスの平和という有名な物語と向き合ってもらおう。知らない方のために、念の為にその物語も綴っておく。

そして、これをキッカケにこれ以外の事柄に関しても、自分の思考の起点をぜひ疑ってみて欲しい。

此処ではない何処か遠い場所に、オメラスと呼ばれる美しい都がある。
  オメラスは幸福と祝祭の街であり、ある種の理想郷を体現している。そこには君主制も奴隷制もなく、僧侶も軍人もいない。人々は精神的にも物質的にも豊かな暮らしを享受している。祝祭の鐘の音が喜ばしげに響き渡る中、誰もが「心やましさ」のない勝利感を胸に満たす。子供達はみな人々の慈しみを受けて育ち、大人になって行く。
素晴らしい街。人の思い描く理想郷。しかし、そのオメラスの平和と繁栄の為に差し出されている犠牲を知る時、現実を生きる自分達は気付くのだ。この遥か遠き理想郷は、今自分が立っているこの場所の事なのだと。
 オメラスが求めた犠牲。それはこんな姿をしている。
オメラスの美しいある公共建造物の地下室に、一つの部屋がある。部屋には錠のおりた扉が一つ、窓はない。わずかな光が、壁板のすきまから埃っぽくさしこんでいるが、これは穴蔵のどこかむこうにある蜘蛛の巣の張った窓からのお裾分けにすぎない。
その部屋の中に汚物まみれの子どもが坐っている。男の子とも女の子とも見分けがつかない。年は六つぐらいに見えるが、実際にはもうすぐ十になる。その子は精薄児だ。
その子はもとからずっとこの物置に住んでいたわけではなく、日光と母親の声を思いだすことができるので、ときどきこう訴えかける。「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」彼らは決してそれに答えない。その子も前にはよく夜中に助けをもとめて叫んだり、しょっちゅう泣いたりしたものだが、いまでは、「えーはあ、えーはあ」といった鼻声を出すだけで、だんだん口もきかなくなっている。その子は脚のふくらはぎもないほど痩せ細り、腹だけがふくらんでいる。食べ物は一日に鉢半分のトウモロコシ粉と獣脂だけである。その子はすっ裸だ。
その子がそこにいなければならないことは、みんなが知っている。そのわけを理解している者、いない者、それはまちまちだが、とにかく、彼らの幸福、この都の美しさ、彼らの友情の優しさ、彼らの子どもたちの健康、学者たちの知恵、職人たちの技術、そして豊作と温和な気候までが、すべてこの一人の子どものおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ。
..........そして、この幸福に満たされた完璧な理想郷から、時々歩み去る人たちがいる。

ル・グウィン著『風の十二方位』に収録されている短編小説より


さぁ、僕たちはどう考えるべきか?
本質を見極めろ、常に。
考えよ、キミよ。


By オレの殴り書き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?