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KOTO official
2019年6月5日 16:43
当時通っていた青柳保育園は新狭山ハイツの端っこのちょっとした高台にあった。なかよし広場という大きな公園の横だ。家から子供の足で徒歩4分。同じクラスの子達はほぼこの団地の子供達。毎日が楽しいはず、だった。だった、というのはつまりそういうことだ。幼少期の僕の人生において平穏な日はなかなかやってこなかったということ。どういう字を書くかは覚えていないがドウゲン先生という女性が担任だった
2019年5月11日 00:30
幼少期から小学校5年生まで住んでいた新狭山ハイツという西武新宿線・新狭山駅からバスで8分、歩くと25分という車の無かった僕の家庭には不便極まりない距離にある32棟からなる森を造成した新興の団地はひたすら遊び場だった。昭和40年代半ば。イケイケの高度成長期に入っていた日本経済。首都圏に集中する人口。ベッドタウンとしてのドーナツ化現象の一端を担ったであろうこの団地。池袋や新宿を一本で結ぶ西