KOTO official

東京・自由が丘で整体サロンSolecka(ソレシカ)を運営しているカラダデザイナー®のコトーです。『ことう式 あたまの整体®』DVDシリーズでオリジナルの頭蓋骨調整を同業者にシェア。自由な生き方を実践。東京以外でも全国6箇所でセミナー定期開催。海外は中国・カナダ・アメリカで開催。

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東京・自由が丘で整体サロンSolecka(ソレシカ)を運営しているカラダデザイナー®のコトーです。『ことう式 あたまの整体®』DVDシリーズでオリジナルの頭蓋骨調整を同業者にシェア。自由な生き方を実践。東京以外でも全国6箇所でセミナー定期開催。海外は中国・カナダ・アメリカで開催。

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最近の記事

KOTO'S LIFE STORY 第5話 右上腕骨骨折

やはり夏のクソ暑い日にはろくなことがない。 4歳の夏の出来事。 僕の歴史の中でいくつもあった最悪の出来事の中のひとつめが。 それは1975年の夏の日。 その日の福島県石川郡石川町は暑かった。 夏休みに大好きだった祖母の家の長い廊下でモップがけを手伝っていた時のこと。 モップがよく滑る床だったし褒められるので勢いよく走り回り得意になっていた。 そしてその勢いのまま縁側に転落。 不運にも縁側によくあるサンダルなどを置く沓脱ぎ石に腕を打ち付けた。 それだけならいいのだが

    • KOTO'S LIFE STORY 第4話 青柳保育園

      当時通っていた青柳保育園は新狭山ハイツの端っこのちょっとした高台にあった。 なかよし広場という大きな公園の横だ。 家から子供の足で徒歩4分。 同じクラスの子達はほぼこの団地の子供達。 毎日が楽しいはず、だった。 だった、というのはつまりそういうことだ。 幼少期の僕の人生において平穏な日はなかなかやってこなかったということ。 どういう字を書くかは覚えていないがドウゲン先生という女性が担任だった。 いつも眉間にシワがより意地悪そうな目をしていた。 子供頃から直感はよく当たる

      • KOTO'S LIFE STORY 第3話 怪我、アレルギー

        今となってはおぼろげにしか残っていないが・・・幼少期は寂しくて心もとなかったんだと思う。 この時期はあまりいい顔をした写真がない。 両親は共働きだった。 その穴を埋めるために福島から祖母が来てくれていた。 当時の家計のことなど知る由もないが父は会社員、母は学校の先生。 十分な収入はあったはずだ。 しかし母には強い使命感があったのだろう。 決して仕事を辞めなかった。 日曜になればみんな揃うけどその日だけ。 両親は東京まで仕事に向かうので早く家を出る。 朝ごはんはいつも祖母

        • KOTO'S LIFE STORY 第2話 新狭山ハイツ

          幼少期から小学校5年生まで住んでいた新狭山ハイツという西武新宿線・新狭山駅からバスで8分、歩くと25分という車の無かった僕の家庭には不便極まりない距離にある32棟からなる森を造成した新興の団地はひたすら遊び場だった。 昭和40年代半ば。 イケイケの高度成長期に入っていた日本経済。 首都圏に集中する人口。 ベッドタウンとしてのドーナツ化現象の一端を担ったであろうこの団地。 池袋や新宿を一本で結ぶ西武線。 東京から1時間掛からずに帰ってこれる距離。 この辺りに居を構えるというの

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        • KOTO'S LIFE STORY
          6本

        記事

          KOTO'S LIFE STORY 第1話 誕生〜幼少期

          1971年8月のとても暑い日に僕はお茶の水駅前の三楽病院で産まれた。 もちろん覚えていないが僕が産まれた時の写真の横に母親の字でそう書いてあったからとても暑かったんだと思う。 母親は悪阻がひどく妊娠中は冷やし中華とあんパンばかり狂ったように食べていたそうだ。 マジか。 産まれたての僕の主成分は小麦のグルテンだったんじゃなかろうか。 それが僕の小麦アレルギーの原因のような気がするのだがもうそれは言うまい。 僕はどうやら母の体の諸事情によりこの世に出てくるのが少しばかり早か

          KOTO'S LIFE STORY 第1話 誕生〜幼少期

          KOTO'S LIFE STORY プロローグ

          整体業界への入門前から自分なりに開発したオリジナル頭蓋骨調整テクニック「ことう式あたまの整体®」のこと、そして全国進出や海外進出までの古藤格啓の整体師としてのライフストーリーをつらつらと書いていきます。 この業界に入ったのは大学を出て数カ所の会社に勤務し、そこを辞めてイギリス・スペイン・アイルランド・アメリカ・カナダなどを放浪したあと。 整体師になる前の仕事はお堅い会社の会社員→プロレス雑誌のフリーライター(ゴーストライター)→健康食品の会社員でした。 整体師を目

          KOTO'S LIFE STORY プロローグ

          ”脱白衣”ムーブメント〜それは生き方を表す〜

          白衣とMY STYLE 2007年11月までは白衣を着て毎日仕事をしていた。 そこに理由などを求めることはなかった。 それが前回述べた職業的適正だと思っていてドクターではないが医療類似行為従事者においてはそれが適切だと考えていた。 このコラムを読んでいただいている方は考えたことがあるだろうか。 自分の仕事着のことを。 もちろん無いわけはないであろう。 毎日着るものだ。 同業者であれば白衣、他の職業であればその制服にあたるものである。 その昔、整体の学校

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          ”脱白衣”ムーブメント〜それは生き方を表す〜

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          ”脱白衣”ムーブメント 〜制服の考え方〜

          そもそも白衣って何? 白衣、独特の響きである。 ある者にとっては白衣とは永遠の憧れかもしれない。 憧れの職業が白衣を着るものであればなおさら。 あとはナースに恋をした場合。 白衣とは主に医療従事者や食品取り扱い者が着ている白い服のことである。 衛生的な感じ、汚れが目立つ、立場や仕事がよくわかるなどのメリットがある。 デメリットは白衣高血圧という現象を引き起こす方がいるということだろうか?(笑) 白衣高血圧とは医者に行って血圧を測定する時にドクターや看護師

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          ”脱白衣”ムーブメント 〜制服の考え方〜

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          ”脱白衣”ムーブメント

          猫も杓子も”脱白衣”宣言? 我々整体師という職業は自由だ。 営業時間も立地もテクニックも髪型だって自由。 だがなぜか仕事着は”白衣”を着ていることがデフォルトだ。 なぜか? 医療類似行為という名の下にある我々は何の疑問もなく”白衣を着ているだけ”なのではないだろうか? 白衣の印象はといえば・・・清潔さ、正義、いかにも先生っぽい(笑) などの印象があると思う。 だが僕は白衣は着ていない。 というか着ていたけど8年前に”脱白衣”をしたのだ。 その心境の変化やその後の

          ”脱白衣”ムーブメント