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"エモい"で終わる世界は嫌だ


「エモい」という言葉は知っているけど、今の僕はその「エモさ」を言葉にすることができない。


オーストラリアにきて、
写真は言葉のいらないコミュニーケーションだと思うようになった。

音楽のように。

1枚の写真を見て、人は何かを想う。

そこに明確な答えはない。
人それぞれの見方があって、感じ方がある。



写真は、世界を見るのと同じように、人それぞれの見方があって然るべきモノだと思う。

だから、僕らはファインダー越しの世界に取りつかれるし、ファインダーの向こう側を知りたいと願う。

ファインダーの向こうには、人それぞれの「エモい」があって、それは人それぞれの心の中なんだと思う。

Googleで「エモい」を検索すると

〇〇はエモい。
□□はエモくない。

エモいとは、追体験らしい。

感情を動かすのは、情報ではなく追体験だそうだ。

コーヒーはエモくないけど
少しぬるいエメマンはエモい。

コーヒーよりも、エメマンだから、
より具体的に、僕もその情景が思い描ける。

情景を思い浮かべることができるのは、追体験だからだ。

でもその追体験の正体は、エメマンじゃない。

少し湯気が立つエメマンを想像できる、人の心だ。



僕は、オーストラリアの夕焼けを電車越しに見て、

あぁ、エモいな。と思った。

そして、その僕の心がエモいな。と思った。

僕は、この心の正体を知りたい。

僕は、エモいを言葉にしたい。

エモいを、エモいで終わらせるのは

なんだか、寂しい。

エモいを言葉にできる世界に、僕は行きたい。


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