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駄菓子の当たりくじと幸福論

3歳になる息子が、駄菓子を買った。
10円で買える、当たり付きのチョコだ。

1つ目で当たりが出た。
まだ息子は文字が読めないので、僕が当たりだと伝えると、息子は喜ぶ。

もちろん僕も、1つ目で当たりが出たことに喜んで、それ以上に驚いた。

僕の幼少時代を思い返すかぎり、駄菓子で当たりを引い記憶はない。
駄菓子のパッケージの裏に書いてある文字は、全てがはずれの記憶だ。

小さな僕は、いつも、「またはずれか…」とがっかりしていた記憶がある。
それを、息子は1つ目で当たりを出した。

この子は運がいい子なんだな!

と、たいそう喜んだ僕。

いやぁ、凄い、この子は本当に運がいい!

と僕が余韻に浸っている間に、息子は2つ目のチョコを開ける。

当たりが出る。

…え?また?

おかしくないか?
この駄菓子は当たりしか出ない駄菓子なのか?

疑う僕。
喜ばない僕に、疑問を感じる息子。

幸運が続くと、不安になる。
人間が予想外に幸運を感じ過ぎると、疑問の念をいだき、不安になるようだ。

そして、それと同時に喜びはなくなる。
幸運が続きすぎると、喜びすら低減するようだ。

まったく不条理な生き物だと思う。

喜ばしいことが起きたのだから、素直に喜んでおけばいいのだ。
幸運が起きたことを、疑問に感じる必要は一切ないのだ。

なにも疑わず、不安に感じず、毎日を生きれたら、どれだけ楽だろう。

今が幸せであれば、それだけでいいと思えれば、どれだけ人生は生きやすいだろう。

いわゆる『足るを知る』というやつだ。
今の現状に満足するのが、一番の幸福への近道だ。

紀元前500年以上前に、中国の老子が語ったこの言葉。
キリストが生まれる、500年以上も前に、人間はこんなことを考えている。

たいして変わらないなと思う。
人間なんて、進化しているようで、たいして進化なんてしていないのだろうな、と思う。

「人間は狩猟採集時代から、変わっていない」

なんてことはよく言われている。
現代人は、1万年前(諸説あり)の原始人と体の構造や、脳の構造は変わっていないという。

であれば、1万年前の狩猟採集時代も、老子のような哲学めいた考えをしていた人間はいたかもしれない。

人間は賢くなっているようで、たいして賢くはなっていない。

進歩と進化は違うなんて話がある。

進歩は、現状が時間を経過し、よい状態になること。
進化は、その環境に応じて変化することだ。

人間が1万年の間で、辿ってきた道はどっちだろう。

人類は進歩しているのか?

ただ、現状の環境に適応しようと、進化し続けた結果、良い方向にたまたま進歩しただけなのかもしれない。

偶然だ。
自分が今この時代に生きて、何不自由なく暮らせているのも偶然だ。

駄菓子のチョコの当たりが続けて出たのも偶然だ。

偶然をただ喜ぼう。
たまたま享受できた、現代の幸せをただ噛み締めよう。

息子は当たりが出て運がいいし、そんな息子を持った僕も運がいいのだから。

おしまい。

サポートされると、僕が喜びます。僕が喜ぶと、文章のノリがポジティブになります。