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noteで気になる人の文章は、人間臭い

自分を、ありのままさらけ出している人は面白い。

ブログの大前提として、価値提供というものがある。
読み手にとって、価値がない記事は、読まれないと思ったほうがいい。

では、価値提供とはなにか。

  • 相手に有益な記事

というのが、スタンダードな答えだ。

「そっか、文章及びブログは、価値提供がだいじなんですね!」

と素直に受け取った人は、

  • 自分の生活にとって、有益だったもの

  • こんな考えだとうまくいくという、メソッド

  • ビジネスに役に立つ情報

などを使い、文章を書こうとする。

僕もたまーーーーに、そんな文章を書くことがあるが、たしかにそのようなだれかに有益な情報というのは、読まれやすい傾向にある。

しかし、note及びブログは、だれかに役に立つような、スタンダードな記事を書いている人ばかりではない。

なかには、

「それ、ここに書いてどうすんの?」

というような記事を書いている人もいる。

こんな事を書くと、僕がそんな人達を否定しているように捉えられるかもしれないが、そんなことはまったくない。

なぜなら、僕はそんな、「それ、ここに書いてどうすんの?」という記事が好きだからだ。

え?この記事でフォロワーがこんなに?

僕と同じような人が多いのだろう。
誰もが有益な記事ばかり、求めているわけではないのだろう。

なぜなら、有益ではない記事を書いている人には、わりと多くのフォロワーがいるからだ。

僕が、

「なぜか見に行ってしまうな…」
「あ、あの人は、今日どんな記事を書いているのだろう…」

と思う人は、誰かに有益な情報を与えているわけではないが、フォロワーが不思議と多い。

誰かと熱心にやり取りしているわけでもない

誰かに有益な情報を書いているわけでもないのに、フォロワーが多かったり、スキが多い理由はなにか。

この理由として、考えられるのは、

note仲間と熱心にやり取りしている

という考えが思いつく。

コメントを残したり、スキをしたり、他の媒体でもやり取りをしたり、がそれに当たる。

フォロワーを増やしたり、スキを増やそうとする方法としては、これもスタンダードな方法の一つだ。

しかし、僕が気になって見ている人はそうゆうわけでもない。
言い方は悪くなるが、そのような人はそもそも他人に興味が無いように見える。

実際、そういった人は、フォロワーは多いが、フォローしている人は少ない場合が多い。

  • 価値提供をしている記事ではない

  • 仲間と熱心にやり取りをしているわけでもない

ではなぜ、そういった人にはフォロワーが多かったり、記事が面白かったりするのだろう。

熱量と、感情で文章は面白くなる

こういった不思議と魅力がある人の特徴として、思い当たるのは、

熱量と、感情

僕が見てしまうような記事の特徴として、凄まじいまでの熱量と感情がある。

僕が最近見た面白かった記事は、ソシャゲのサービスが終了することを、ただただ嘆いている、という記事だ。
サービスが終了するということは、言ってしまえばそのゲームは人気がない。

ということは、そんな記事を書いたところで、共感する人はおそらくいないし、読む人もほとんどいないのが推測できる。
しかし、その人はそのゲームが終了するのをとにかく嘆いている。
そんな記事がなぜ面白いか。

やはり、その理由は、熱量と感情だ。

熱量と感情は、不思議と伝わる。

「私はこれを伝えたいんじゃぁああ!!」

という圧倒的な熱量と感情は、文章でも伝わるものだ。

熱量と感情で、文章は面白くなる。

人間臭さを文章に込める

面白い文章をいうのは、熱量と感情がある。

熱量と感情とはなにか。

要は、人間臭さ、というやつなのかもしれない。

文章というのは、冷淡だ。

『今日は楽しかった』

という文章を読んで、「あぁ、この人はなんとなく楽しかったのかな」というのは伝わるが、なにかそこには温かみがない。

文章は文章でしかなく、目の前にその人がいるわけでもない。
顔は見えないし、声も聞こえない。

なので、

『今日は楽しかった』

という文章は、AIが書いても、人間が書いても全く違いはない。

僕も、もう少し人間臭い文章を書きたいな。

そんなことを思った月曜日でした。

ありがとうございました。


サポートされると、僕が喜びます。僕が喜ぶと、文章のノリがポジティブになります。