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甘やかなる抱擁

 いつも通りの時刻に目覚ましを止めた。目は覚めたが動けないまま、天井と見つめ合って時間が過ぎていく。何とか起き上がって冷えた水を勢いよく流し込むと、出勤ギリギリの時間だ。ドアノブを回そうとする手が意に反して抵抗してくるのを感じながら外へ出た。叫びたい衝動を堪えて何とか会社の前まで辿り着き、深呼吸をする。朝の冷たい空気が肺を満たし、少し冷静になった気がした。早く仕事を片付けて帰って寝ようと思い直して顔を上げると、目の前には上司がいた。彼はいつも通りおはようと言い、私は空元気で返事をした。
「元気がいいね」「最近明るくなったね」「仕事が楽しいのかい」
悪化の一途を辿っている精神状態と自分に対する他者からの評価とがあまりに乖離していて、乾いた笑いが出た。その反応を見た上司は満足げな笑みを浮かべて去っていった。

 きまり悪く小走りで自動ドアをくぐり、デスクに鞄を置いた。椅子に腰を下ろすのよりも早く今日は早退すると宣言すると、戸惑いの視線が集まった。それを無視して机の上を整理し始めた私に、声がかかる。同期入社の女の子だった。心配そうに声をかけてくれた彼女に対し、何でもないとだけ返した。自分の席に戻りパソコンを立ち上げる間も、無言の圧力を感じていた。同僚たちは私がなぜ早退するか薄々勘付いているはずだ。そしてそれは、私の自意識過剰ではないという確信もあった。だがそれをあえて言葉にして尋ねようとする者は誰もいなかった。それが彼らの優しさであるということはわかっていたし、今はその沈黙がありがたかった。自分が壊れつつあることを認めずに済む。

 職場を出て、すぐそばにある喫茶店に入った。店内を見回すと、客の姿はほとんどないようだ。パンケーキとコーヒーを店員さんに頼み、メニュー表を押しやった。焼き上がりまでの間ぼんやりとしていたら、何だか眠くなってきた。目を閉じてうつむき加減になると、目元を覆う長い前髪のせいで瞼の向こう側が暗闇に包まれる。そのままうとうとしかけたところで店員さんの控えめな咳払いを聞き、顔を上げた。いつの間に運ばれてきたのか、お盆に乗せられた皿の上には、甘い匂いを放つふわふわとした黄色い塊が置かれていた。フォークを手に取って一口大の大きさに切り分ける。口に入れるとその柔らかさに驚いた。生クリームやフルーツといったトッピングはないが、生地に蜂蜜のような甘さがあり、食べ進める手が止まらない。結局あっという間に食べきってしまった私は名残惜しい思いを抱えつつ皿とナイフを置いた。食後のコーヒーに手を伸ばすと、ほろ苦さを感じる深い香りが鼻を抜けていく。甘やかなる抱擁の後に訪れたこの苦味が心地よかった。ゆっくりと味わいながら飲んでいるうちに、次第に頭が冴えてくるような感覚があった。思考能力が向上していくのと同時に頭の中で様々な感情や情景が入り乱れ、混ざっていくのを感じたが、不思議とそれを受け入れることができた。店を出るころには、いつも通りの自分に戻っていた。

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先日会社を早退したときの話です。
冬が近づくと、希死念慮が一層強くなり、精神的に一層参ってしまいます。

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