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母が魔女だった時

 4歳ぐらいのある日、眠れずに部屋を出るとぼんやりとした灯りのみがぼうっと影を作る暗い部屋に母が一人佇んでいた。灯りをよくよく見ると、とても小さな炎だった。
「……」
母は無言だった。薬草のような香りが匂いが立ち込めていた。やがて炎が消えると、その炎を支えていた器を口に運んだ。
「魔女の嗜みってやつよ」
保育園で読んだ絵本の中の魔女を鮮明に思い出した。全身を覆う黒い服を着て、派手な装飾品を身につけ、指先で火を操る。その魔女と母親の姿が重なった。そして、母親の行動について、火を出すのなら火の素を補給する必要があるのかもしれないと何となく納得した。
「早く寝な」
母親が魔女であるという興奮によって、遠足の前の日の夜のように寝付けなかったのを覚えている。

 またある日、透き通った薄い青紫色の液体で満たされたグラスを傾けていた。今まで見たどんな色でも表現できない色をしていたが、強いて言えば、住んでいる団地の生け垣に咲いていた紫陽花がこんな感じだったかもしれないなどと思い起こしていた。グラスがカランという音を鳴らした時、母が私に気づいて
「一口飲むか?」
と言った。おずおずとグラスを手に持つと、甘く絡みつく花のような香りがする。口をつけると甘さと酸っぱさがないまぜになった味がした。舌の上に残る不思議な感覚は何だろう。 舌と喉がパチパチと弾ける。その液体をとても気に入ったけれど、言葉で上手く表せない気がして押し黙っていた。
「美味しいか」
答える前に頭がクラクラしてきて、ぺたりと床に腰をおろす。身体が重くなり、意識に靄がかかっていく。
「まだ早かったか」
ーー早いって何が?私が魔女になるのが?
疑問を口にする前に、私の意識は途絶えた。

 年長に上がる頃には、私は母親の行動の意味をほとんど理解していた。それは母親にとって魔法を使うための力を補給するためなのだ、と。そして、魔法を使っているところを魔女以外の人に見られるわけにはいかないから、実際に魔法を使っているところを見たことがないのだ、と。そう考えれば辻褄が合う。夜遅くにめかし込んで度々出掛けていくのを、魔女の集会のためだと私は信じて疑わなかった。

 しかし、ある出来事がきっかけで私は自分の思い違いを知った。

 母が夜に真っ赤な口紅を引いているのを見かけて、不意に母の後をつけてみようと思い立った。季節は冬、外は刺すような寒さだ。車を出す前に先に暖房をつけておいて、冷え切った車内が暖まるまでしばし家で待機するのが我が家の習慣だ。集中して耳を澄ませていると、エンジンが掛かるブゥンという音が聞こえた。私はすぐさまジャンパーを着て家を抜け出し、普段使わない非常階段からこっそりと団地の外へ出た。時折物陰に隠れながら何度も後ろを振り返り、足音を殺して駐車場へ向かった。
しんと静まり返った中で、車のエンジン音だけが響いている。すぐに戻るつもりだからか、車のドアの鍵は開いている。中に入り込むと小さな身体を利用して運転席から後部座席、荷室へと隙間を移動して行き、息を潜めて時が来るのを待った。
やがて母が乗ってきた。タバコの臭いが煙い。

 どれくらい乗ったのか。眠ってしまったようで、目を覚ました時には知らない場所で、母親はいなかった。
窓から外の様子を伺うと、「スナックまさよ」のネオンが目に入った。

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全文実話。
母は酒飲みで、バイオレットフィズが特に好きだったようです。
今では私も嗜むようになりました。

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