国境がない・実力主義が体育と芸術で、年齢制限も性別制限もないのが文学

2021年、東京オリンピック始まったそうですね。

テレビでやっていても、結局見ていない側の人間です。
関係者の皆様、すみません。

直接的ではなく、結局画面越しの熱意。街の広告もどこか他人事のように見てしまって、本当にオリンピックをやっているのか、実感が湧きません。私だけでしょうか?

〜前段話〜
応援、声援って、人の限界突破を助長する効果があると思うのだけれど、この状況で競技に臨んでも、選手はモチベーションが保てないんじゃないのでは?って思ってしまう。
きっと選手にはいろんな葛藤があっただろう。
アスリート人生において、オリンピックに出ないことは、選手生命的に考えられないだろうし、
かといって、観客のいない世界の体育の祭典に何の意味があるのか、
普段の選手選考会とか予選大会と変わらないんじゃないか、とか。
もはや修行。自分との戦いか。
(元々自分との戦いなのだろうが、何か物足りない)

いやいや、そんな批判がしたかったのではない。

SNSがオリンピックで賑わっているのを見るのは、楽しいのよ?

で、スポーツというのは、素晴らしいなと思ったのである。(唐突)
何故かというと、本当に己の肉体だけで勝負しているからである。

国境がない・実力主義が体育

生まれた瞬間、与えられた自分の肉体を使って、いかに最大限の力を発揮するのか。体育競技は、コレに尽きるだろう。

そこには肉体的優性もあるかもしれないけど、戦略だってあるし、
相手にはなくて、自分にだけある力を見出した者、自分の持つ力を努力で伸ばし続けた者が、戦いの場に出るのだ。

そして、国境の隔たりもなく、肉体一つで、競い合う。その一瞬に、自分のベストを尽くす。

戦略的・実力主義が芸術

これはもう、そうとしか言えないのかなぁって思う。
もちろん、腕があること前提という意味もあるけれど、その描いた絵や音楽なんかを評価する立場の人だって様々いるので、ある場所では評価され、ある場所では評価されないなんて、ザラである。

ちなみに、運や人脈を掴みにいくことも、実力なのかなって思っています。
セルフプロデュース力ってやつですかね。
どこにどう働きかけるべきか考える理性的な面と、自分の感性を大事にし、形にする本能的な面。

年齢制限・性別制限がないのが文学

文章を読んでいて、小学生が書いたものにもその良さがあるし、文豪が書いたものにも、その良さがあると感じる。
ほぼ等しく皆が文字を読み書きできる現代だからこそ、スタートラインには誰しもが立っている。誰もが参加条件をクリアしていると思う。

その代わり、言語の壁はあるんだよね。日本語で書かれたものを、英語や他言語に訳さないと伝わらないから。
コレばかりは悔しい。

が、言葉一つで人を、楽しませたり、涙を流させたりする。

形や方法は違えど、どれも素晴らしく、
どれも等しく、人を勇気づける力を持つ。

なにかに一生懸命な人は、美しく輝いている。

という事でした。

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