アブサン【2】
♢
女の指した路地裏のバーは駅から近く、暗く深い場所にあった。
チワワのように、俺の3歩後ろをヒョコヒョコと歩き続ける。
土地勘にも疎い俺は、複雑な曲がり角の多さに四苦八苦しながらも、
彼女のスマホに表示された地図を見つめながら歩くのがやっとであった。
女は一度も話しかけなかった。
ただ後ろから、懸命にゴロゴロとスーツケースを引く音だけが聞こえる。
その中には一体、何が入っていると言うのだろう。
想像していた以上に、ずっと大事に巻き込まれているのでは無いだろうか。
確かに俺は金欲しさで怪しいバイトに手を出したが、
その為に命を掛ける気は甚だなかった。
信号が赤になる。
立ち止まると、続けて彼女が真横に並んだ。
沈黙はとても気まずく、居心地の悪いものだった。
話しかけて良いものか分からぬまま、
ただただ車やバイクが横切るのを見つめていた。
「すみません、突然話しかけてしまって」
俺より年下であろう女はこちらを見つめると、礼儀正しい口調で尋ねた。
やはり場所を変えてやり取りするのは急遽のことだったようだ。
俺は「いや」と一言呟いて、それきりまた静かになった。
重たそうなスーツケースを持ってやろうとも思ったが、
大事そうに抱えているので声を掛けるのはやめた。
信号が青になる。
先に見える高架下を渡れば、目的地に着くはずだ。
「だけど、もしかして誰かと待ち合わせしてたんじゃないですか?」
彼女の言葉を深く考えることなく、また3歩前を歩き始めた。
♢
とても薄暗い。
怪しい物をやり取りするには持ってこいの場所である。
目的地に着くと地図のナビは自動的に終了した。
彼女にスマホを返すと、彼女はそのままポケットに入れて一礼した。
昼間なのに薄暗いバーは、確かにそこにあった。
小さな青いプレートには『closed』と書かれていて、
彼女は躊躇なく入った。
俺は何かを尋ねるでもなく、後に続くだけだった。
ドアが開くと鈴の音が鳴る。
バーの中には誰もいない。
照明も付いていない。
ひんやりとした空気が充満している匂いがした。
カウンターの奥には見たこともない外国語でラベリングされた酒が沢山並んでいる。
それから木造をイメージしたような、まばらな茶色の壁。
壁には不気味な程に様々な大きさの絵画が並べて飾られていた。
細長いカウンターの他には、テーブル席が3つ。
とても静かな空間の中に、男と女は2人で居た。
「では、ありがとうございました。
とても助かりました」
女は席に座ることもなく、一定の距離を保って話し掛けた。
「あ、じゃあこれ」
一刻も早く終わらせたかった。
それなのに俺が差し出した紙袋を、彼女は受け取らなかった。
「なんですか、これ」
ナンデスカ、コレ。
頭の中で反芻した。
彼女の言う言葉が、しばらく変換出来なかった。
その時、脳内の変換を遮るように突如として甲高い音が店中に響いた。
音は同じトーンを反復し、脳内で鈍く響いている。
予期せぬ音に、思わず身体が飛び跳ねかけた。
女は突然怯えた顔をして、テーブルの下に潜り込んだ。
「あの、電話に出て貰っても良いですか?
一言も話さないでください。聞くだけで良いのでお願いします」
俺は既に電話どころでは無かったが、
彼女の緊迫した様子に言い返す勇気も無く、言われるがままカウンター裏に向かった。
ヴィンテージがかった古い黒電話だ。
店内の装飾に合わせて、わざと選んだようだった。
受話器を上げると、待っていたと言わんばかりに相手が話し掛けた。
「もしもし、私だ。櫻子か」
低く、しかし優しい男の声が電話口から聞こえた。
緊張で思わず唾を飲み込んだ。
「あまり長く話せないからよく聞いておくれ、17時にはそちらに着く。
それまでの辛抱だ。
絶対にスーツケースを離さないでくれ。
上手く隠れてくれよ」
まるで留守番電話を録音しているような調子で、
男は電話を切った。
この時点で俺が分かったことは幾つかあった。
女の名前が櫻子だということ。
スーツケースの中には、大切なものが入っているということ。
それからこの女は、俺が探している奴では無いことだ。
途方に暮れるとはこのことだった。
櫻子は怯えたまま、俺の顔を伺っている。
「17時には着くと言ってたよ」
「叔父さんでしたか」
櫻子の不安そうな顔が、幾らか和らいだ。
「何故俺に声をかけた」
俺はタバコに火をつけた。
今落ち着いて物事を考えるには、他に選択肢は無かったのだ。
「…この街を1人で行動するには危険と言われました。
なので、声を掛けても安全そうな人を伺っていたんです」
櫻子は窓から影が映るのを避ける為か、
椅子には座らず床に足を伸ばしていた。
罪悪感がチクチクという音を立てて、心臓を突き刺した。
何を隠そう、今からこの街で悪党になろうとしていたのは俺である。
「それで、スーツケースの中身は何が入っている」
彼女はしばらく黙っていた。
座っていてもケースの持ち手は離さず、しっかりと握ったままである。
「価値がある物だというのは分かっている」
俺の一言に観念したのか、彼女は口を開いた。
「絵画です」
「絵画?」
壁に掛かっている絵画の人物たちが、
一斉にこちらを見たような気がした。
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