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こうして僕は障害者ミュージシャンになった。

10年前のとある日、僕は数年ぶりに健康診断を受けました。

高校卒業後に学費を稼ぎながら小さな音楽学校に通っていた20歳頃から30代半ばまで、僕は健康診断を一度も受けた事はありませんでしたし、健康になんて殆ど何も気を使わず不摂生な暮らしをしていました。

なので少し不安はあったけどまだ30代。
今まで何も引っかかった事は無いし、
今回も特に問題はないだろうと勝手に思っていました。

そして当日、ごく普通の成人健診はひと通り終わりましたが、
最後に医師から衝撃的な言葉を聞かされました。

「心電図に異常が見受けられる。ブルガダ症候群の疑いがある。紹介状を書くから大学病院で検査した方が良い。このままだと死んじゃうよ」

ブルガダ症候群とは心室細動の事で、致死性の不正脈を誘発する恐れがあります。現代の医療では完治は望めないそうですが、除細動器を体内に埋め込めば死亡リスクはほぼゼロになるらしいです。

つまり僕の心臓は生まれつき致死性の不正脈が誘発されてしまう可能性があり、その為夜間の突然死のリスクが高いという事でした。

病院からの帰路、僕は落ち込みもせず意外と冷静で、こんな事ってあるんだな。と自分の死亡のリスクよりも、大きな大学病院に行って色々と検査をしなきゃならない事の面倒臭さの方がとても憂鬱でした。

確かにたまに突然心臓がバクバクする事はあるけど、痛みも全くないし、まぁ大丈夫だろう…としか思えなかったのです。

それから数日後、僕は紹介状を持って指定された大学病院へ行きました。

そこは超巨大なビルで、最新鋭のPCや医療機器がずらっと並んでいて、受付から検査、診察、支払いまで完璧にシステム化されたとても近代的な施設でした。

僕はこの大学病院に何度か通い、その間に血液検査、心電図検査、レントゲン、不正脈を誘発する薬の投与検査、上半身に複数のコードを付け、ルームランナーの上を走り心臓に負荷をかけてその変化を診る検査…記憶が定かではありませんが、中には恥ずかしさや屈辱感を感じるものも有り…。
とにかくいくつもの検査を受けました。
因みにこの時生まれて初めて車椅子に乗りました。

数日に亘る検査の過程で、ある医師からは

「除細動器の埋め込み手術をする事になる。一か月程入院するから仕事を調整しなさい。」

とも言われかなり気落ちしました。

しかし最終的には、今後の治療方針や検査結果は後日診察室で報告するとなり、「その時はご家族同伴で来て下さい」
と言われました。

病院では通常、患者に重大な告知をする時には家族同伴にすると人から聞いていたので、僕は内心とてもビクビクしていました。

そして結果告知当日、医師の口から妻と僕に告げられたのは以下の内容でした。

1、間違い無くブルガダ症候群である。

2、現時点で体内に除細動器を埋め込む必要はない。よって入院もしなくて良い。

ブルガダ症候群だからと言って全員除細動器を埋め込まなければならない訳では無く、そこは確率論によるリスクヘッジをしています。

つまり…。

①家族に突然死した人がいるか?
ブルガダ症候群が解明されたのは比較的最近なので、親等近しい肉親で若い内に原因不明の突然死をしている人がいればブルガダ症候群の可能性ありなので、遺伝的に高リスクと判断される。

②失神したか?
死に至らぬとも不正脈が原因で失神する場合もあるので、その有無によりリスク度合いを判断する。

③誘発剤による反応があるか?
これに関しては良く分かりませんが、ともかくある薬を投与して心臓が反応したら高リスクという事だと思います。

僕の場合は③のみ該当でしたので、その時は入院も埋め込み手術も不要となりました。心底ほっとしたのを覚えています。

それから10年間…

ミュージシャンとしては、ホテルのラウンジや、バー、カフェ他商業施設での出張演奏や、ギターのレッスン講師、配信や店内BGM用の楽曲制作、ラジオ出演等多忙な日々を送り、自分がブルガダ症候群である事を忘れる事はありませんでしたが、時々の軽い不正脈に悩まされつつも普通に生活してきました。

しかし去年の秋のある日…。

僕は自宅で倒れました。

明け方の4時頃、尿意を感じて目が覚めた僕はトイレでオシッコをしました。その直後突然気持ち悪くなり吐き気を感じました。その時の事はハッキリと記憶していて、最初に抱いた感情は面倒臭いなぁという事でした。

これは本気で気持ち悪いやつだと。疲れてるのにこれでもう寝れないと。早く治らないかな?と思った瞬間、後ろのドアを背中で押し開ける様にして倒れました。床にお尻をぶつけた衝撃で直ぐに目が覚めたのですが、もの凄い音がしたらしく娘と妻が飛んできて2人して

「パパ、大丈夫?」

「パパ、大丈夫?」

と何度も問いかけてくれました。
僕も何度か「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と応えました。その時には気持ち悪さは嘘みたいに消えていました。その時点でまだ5時前だったので妻と娘を寝かせて僕も少し眠りました。

この頃はとてもタイトなスケジュールが続いていて、肉体的にかなりの疲労が溜まっていました。なので僕は過労が原因だろうと思っていました。本当に確信していたと言っても良いくらい。

でも念の為ネットで調べた近所の循環器系のクリニックに電話しました。何故最初から大学病院に行かなかったか?と言うと、不正脈が原因だと特定され治療を受ける事になるのを恐れていたのだと思います。

でもそのクリニックからは「直ぐに大学病院に行きなさい!」と言われました。当然ですが。

やむなく勇気を出して10年ぶりに大学病院に行きました。相変わらず巨大でした。とてもシステマティックに血液検査や心電図検査を行い、診察時に失神した旨を医師に伝えました。すると医師(10年前とは別人)は以下の内容の発言をされました。

「失神したのならステージが一つ上がった。失神の原因は様々で必ずしも心臓起因とは言えないが、その可能性は充分あり得る。なので10年前より更に踏み込んだ検査をするのが望ましい」

そんな訳で僕は2泊3日の検査入院をする事になりました。人生初の入院です。その"踏み込んだ検査"が陰性ならば10年前と同様に除細動器は不要という結論になりますが、陽性だったら2週間程入院を延長して除細動器の埋め込みをする事になります。

初めての入院生活が始まりました。
僕の病室は15階の角部屋でとても見晴らしの良い場所でした。
その点は本当にラッキーでした。

初日の夜には、翌日検査の為にシャワーを浴びるよう支持されました。シャワー室に入ると、20代と思しき若い女性看護士の方が「剃毛します」と言って僕の陰毛の一部分を剃りました。こんな事は病院内ではごく普通の事なのでしょうが、その時の僕はとても驚きました。

翌朝、初めてストレッチャーに乗せられ2階の処置室だか手術室だかへ運ばれました。そこは複数の大きなモニターがある部屋と、手術台がある部屋とに別れていました。

僕は数人の医師や看護士達の前で全裸にされ(もちろん直ぐに大きなタオルをかけて下さいました)先ず尿管カテーテルなるものを取り付けられました。今振り返っても入院全体の中で、この尿管カテーテルの装着が一番痛くて辛かったです。

そして顔や頭部を金属製のカバーで覆われ、
更にタオルを被せられて検査開始です。

麻酔をして、右足の付け根から心臓に向けて管を3本程挿入されます。
麻酔が効いているので痛みは全くありません。

そしてそれぞれの先端から出される電気信号が心臓を刺激し、
わざと不正脈を起こします。

詳しい事は分かりませんが、とにかくそこで心臓が停まらなければ陰性、
停まれば陽性となります。(心停止した場合は直ぐに電気ショックで蘇生します)

設定を色々と変えながらも検査は続いていきます。
僕は覆われた囲いの中でただずっとタオルを見つめていました。
何も感じずに。

どれくらい時間が経ったでしょうか。
恐らく10分前後だと思うのですが、
突然去年の秋に味わったあの気持ち悪さを感じたかと同時に、
遠くの方で誰かが何かを叫んでいるのが聴こえ、
直後に気を失いました。

次の瞬間、医師から

「Kさん!」
「Kさん!」

と声を掛けられ気がつくと、

「結果は陽性でした。除細動器を入れましょう」

と言われ、僕は呆然とした頭のまま
「はい、分かりました。」
と力なく返事をしました。

そして朦朧とした意識のままストレッチャーを押されて
15階の自分のベッドに戻りました。

実は僕は何故か全く根拠も無いのに検査は絶対に陰性だろうと思っていました。
なので着替えも3日分しか持って行かなかったほどです。

しかし現実は陽性。
入院もあと2週間程延長です。
でも受け入れなければなりません。

それに検査終了後は数時間安静にしていなければなりません。
朝イチでの検査だったので、確か19時頃までずっと寝たきりでした。
もちろんカテーテルも付けっぱなしです。
右足付け根は15cm四方が紫色になって腫れていました…。
それが4月15日金曜日の出来事でした。

さて、埋め込み型除細動器とは一体なんなのか?

要するに常に心臓を監視し、不正脈が発生したり、停まったりした場合にすかさず電気ショックを与えて正常な脈拍に戻してくれる機械です。

因みに除細動器は、僕の知る限りでは2種類あるそうです。一つは脇腹から入れるもの。もう一つは肩から入れるものです。

脇腹タイプは肩タイプに比べると少し大きいです。大体厚さ1cmの運転免許証くらいです。対して肩タイプは(こちらは実物を見た事ありませんが)恐らく縦3cm横3cm高さ1.5cmくらいかな?と思っています。

機能としては、それぞれカバーできる周波数?が異なる様です。それと脇腹タイプは上記の様な不正脈を正すのみですが、肩タイプは脈拍が弱い時にも正常化する所謂ペースメーカーの役割も出来るそうです。

どちらも電池稼働なので、数年毎に入院して交換しなければなりません。更に脇腹タイプにも肩タイプにもコードというかケーブル(というか…ちょっと名称は忘れてしまいましたが)がついています。脇腹タイプは体内にそのケーブルが設置されるだけなのですが、肩タイプは血管の中を通すので交換時に血管と癒着していると大変なんだそうです。

週明けの月曜日、僕は再びストレッチャーか車椅子に乗って(覚えていません)金曜日と同じ部屋に行きました。今回は尿管カテーテルはなしでした。それだけでも僕は安堵出来ました。仰向けで上半身裸になりあちこちに電極の様なものを付けて検査が始まりました。特に痛みは感じませんでしたが、医師達が大きなモニターを見つめながらなにやら忙しそうに手を動かしていました。でもその時は僕には何が何だか訳が分かりませんでした。

検査が終わり、ともかく僕は脇腹タイプを埋め込む事になりました。因みに後で医師が検査時の心臓の映像を観せてくれました。そこには3本程のコードの先端からミサイルの様に電気攻撃を受けている僕の心臓が、負けじと鼓動を打っている健気な姿が映っていました。

4月19日(火)
僕の心臓に除細動器を埋め込む手術をした日です。

その日、僕は早朝からトイレに何度も行って排便を済ませました。
何故なら術後経過によっては、丸2日間ベッドから出れない可能性があるからです。

やがて時間になると看護士が病室に現れ尿管カテーテルを装着しました。
相変わらず激しく痛かったです。

そしてストレッチャーに乗せられ3度目の例の部屋へ。確かこの時も上半身だけ裸で済んだ気がします。少なくともパンツは履いていたと思います。怖くなかったか?と言われたら、正直そんなに凄く怖くはなかったです。不安も特になかったです。手術自体は自分は麻酔が効いて完全に意識喪失状態なので。

術後、医師達に声を掛けられて意識を回復しました。しかしもちろん手足が自由に動かせる訳もなく、ただ呆然としているだけです。何とか自身の胸やお腹の辺りを見ると、白いテープで巻かれてガチガチに固定されていました。埋め込み箇所の左の脇腹は患部に何かをあてがっているみたいですが、何だか分かりません。胸の中央にもコードを付ける為に切った箇所があり、そこも厳重に保護されていました。

朦朧とした意識のままストレッチャーに乗せられ15階の病室のベッドに戻りました。その時点で多分13時くらいだったと思います。

14時頃、昼食が運ばれて来ました。
焼きそばでした。

病院のベッドは介護ベッドなので電動で起こせるのですが、
安静の為に角度は30度までと言われていました。

ベッドの上にテーブルをセットしてもらい焼きそばを食べようとしたのですが、
角度30度ではお皿の中身がよく見えないんです。
でも朝食も抜いていたし、そもそも入院中の食事って成人男性にとっては少ない感じなので、何とかして食べようと思いましたが…無理でした。
それにはもう一つ理由があります。

実は僕、左利きなんです。
心臓も埋め込み箇所も左側。
おまけに点滴もしていました。
つまり左手が殆ど動かせないのです。

それでも痛みに耐えながらなんとかして焼きそばを口に運ぼうとするのですが、
数口食べるのがやっとで、殆ど残してしまいました。

諦めてそのままベッドでずっと天井を見つめていました。
とても長くて辛い時間でしたが手術という一番の山場はもう超えたんだ。
そう思うと救われました。

夕食も昼食より少しマシでしたが似たような状態でした。

その後もずっと…ずっと…
天井を見つめています。
しかし今度は腰が痛み出します。
長時間全く動かずに同じ姿勢で寝ていると、
元々腰痛持ちの僕は直ぐ腰が痛くなっちゃうのです。

やむなく電動ベッドを起こしたり…寝かしたり…
自分では動けないので、その繰り返しをして腰を少し稼働させる事により
痛みを緩慢していました。

たまに様子を見に来てくれる看護士に僕は、

「いつ尿管カテーテルを外せますか?」

「なるべく早く外してくださいね」

と何度も言ってしまいました。

そして翌朝。
4月20日(水)
朝9時頃…ようやく尿管カテーテルが外され、安堵しました。
もう自力で立ち上がり歩いて良いとの事。

先ずベッドから起きる事を試みます。
電動ベッドを垂直になるまで起こします。
その時点でまぁまぁ痛みます。でも何とか耐えられるレベル。

そこから足を床に下ろしベッドに腰掛ける体勢になります。ここまでも大丈夫。

しかし、足に力を入れて立ち上がると耐え難い激痛が上半身全体に走ります。
思わず再びベッドに座ってしまいました。
でも一人でエレベーターに乗って2階にあるレントゲン室に行かなければなりません。

もう一度立ち上がり、靴を履き、手術着のまま右手で点滴の装着された車輪付きのスタンドみたいなやつを押しながら、ゆっくりと…とてもゆっくりとエレベーターホールへ向かいました。

レントゲン室で撮影を無事終えて15階のベッドに戻りました。

これ以降は、基本的に採血、レントゲン撮影の繰り返しです。
痛みは少しずつですが、日毎に治まっていきました。

僕は入院前に家から持参した村上春樹さんの本を2冊2回ずつ読みました。

そして4月24日(日)

10泊11日の入院を終えて僕は退院しました。

退院後、僕は店内BGMの作曲作業をし、音楽誌の取材を受け、レッスン講師も再開しました。

今回の件で、そもそも僕は自分の心臓の真実を知る事に積極的ではなく、なんとか言い逃れをして入院だけは絶対に避けたいと思っていました。大した事ないと思い込みたかったのです。

しかし今振り返ると、あのまま何も治療を受けなかったら僕は今頃死んでいたかも知れません。それは決して大袈裟な話ではなく充分に起こり得る事でした。

なのでやれ
「失神は疲労のせい」だの
「気絶していた時間はせいぜい2〜3秒」だの
「倒れる直前に鼓動の乱れは全く無かった」だのと適当な言い逃ればかりしていた僕を検査入院という診断をしてくれた医師にはとても感謝しています。

元々僕は全く売れない無名ミュージシャンですが、
無名ミュージシャンなりのささやかなプライドがありました。
自作曲を初めてメディアで紹介してくれたのは坂本龍一さんですし、
約80か国のミュージシャンが参加するイギリスのソングライティングコンテストではセミファイナルに進出したし、Spotifyでもようやく北米、欧州を中心に述べ1万回程の再生数を記録したし…。

でもそんな活動が出来るのも健康な身体あっての事です。

今回の事でお世話になった医師、看護士の方々、本当にありがとうございました。

それからお役所に行って様々な手続きをした僕の自宅に先日、
障害者手帳が送られて来ました。

こうして僕は障害者ミュージシャンになった。


私の創作活動の対価としてサポート頂けましたら、今後の活動資金とさせていただきます。皆様よろしくお願い申し上げます。