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渡辺淳一著「愛の流刑地」読書感想文

かつてヒット作を出したものの、ここ15年は新作も出ていない作家・菊治。
菊治は、京都にて古くからの女友達から自分のファンだという人妻・冬香を紹介される。
冬香の奥ゆかしい佇まいに惹かれた菊治は、自分の作品にサインをして送る約束を交わし、連絡を取り合うところまでこぎつける。
冬香に受け入れられ、最初は素直に喜んでいた菊治だったが、彼女の情念が思いのほか深くなり、戸惑ってしまう。
やがて、冬香は情事の最中に「殺して」と訴えかけるようになり、菊治はその首に手をかける。

渡辺淳一作品を読むのはこれが初めてである。
以前から、ファンの多い作家なのでいつか読んでみたいと思っていたものの、後回しになっていた。
渡辺淳一が医師であることから、難解なものを書くのかと勝手に思っていたが、かなり読みやすかった。作者の読者に対する愛情であろう。

渡辺淳一は多作である。なぜ、その中から「愛の流刑地」を選んだかというと、多分、渡辺淳一が最後に世の中を騒がせたのはこの作品だろうと思ったからだ。
2004~2006年まで日経新聞に連載されたこの作品の3分の2は、ほぼ性描写であり、当時、朝からこのような内容をビジネスパーソンらが読んでいることに、眉をひそめる人たちが多かった。
その時の印象では、かつて渡辺淳一の作品を読み耽った奥様方が批判していたように思う。
なぜ、批判していたのかは後半になってわかるのたが。

この小説は上下巻にわかれている。
上巻の出だしから笑ってしまった。
二人が初めて会った時、冬香がふいにおでこへ手をあげるのだが、その動きが「おわら風の盆」の踊りに似ているから、富山の出身ではないかと菊治が予想するのだ。
そんなことあるのだろうか。
あるのならば、私がふいにおでこへ手をあげると誰かが「あの動きは阿波おどりに似ている!徳島出身では?!」と思うのだろうか。
自分に置き換えたら可笑しくなってしまった。

地味で洋服のセンスが悪くて奥手でおとなしいという冬香の設定は、いかにも昭和のおじさんが好きそうな女性であり、日経新聞の読者に多かった男性たちに訴求したものであると考えられる。

菊治が冬香の最終学歴が4年制大学ではなく短大卒であることを好ましく思っているあたりは、あまりに感覚が古すぎる気がしたが、作者の年齢を考えると致し方ないのかなと思った。

この本を読む前に、amazonで上巻についてのレビューを読んだ。冬香の設定や性描写の多さに辟易して上巻で読むのをやめてしまった人たちが多かったようだ。

ところが、渡辺淳一は上巻で辟易してしまった人たちの心を見透かしていたことが下巻のなかで判明する。それどころか、性愛ではなく恋愛超上級者として上巻でリタイアしてしまった人々をかなり上から諭すかのようなことを書いているのだ。

しかも、冬香の人物造形を古くさくして読者を油断させていたことまでわかる。性愛しかり、法律に及ぶまでこの世の中が男性の論理で動いていることを問題視するのだ。

ここで私は、渡辺淳一が昭和の一時期、世の中の奥様方に受け入れられていた理由がわかった。設定やネーミングが古かろうが、上下巻を通し一貫して女性の心に寄り添い続けている。自己のないような女を愛し殺した菊治が、裁判の中で繰り広げられる文言すべてが女性に意思がないように作りかえられてしまうことに違和感を持っている。つまり、女性の味方をしているのだ。

そこで、この作品が日経新聞連載時に奥様方から批判をくらった理由がわかった気がした。女性の味方であったはずの作家が読者の多くが男性中心である当時の日経新聞で都合のいい女を書いていることに、イライラしていたのではないだろうか。
しっかり下巻まで読むと男性に対して、間違った女性観を正すような啓蒙をしている作品であるとわかるというのに。

上下巻1作品を読んだだけでその真理はもちろんわからないが、私はそんなふうに受け止めた。渡辺淳一の作品を官能小説だという人もいるようだが、この「愛の流刑地」を読んだかぎり、そうは思わなかった。私はいろんな雑誌を読むのが好きだ。週刊誌に載っている官能小説を読むことがあるが、この作品はそれとまったく別物である。「情」の深さが違う。また、この作品は性愛、恋愛だけではなく傾き始めた出版業界を糾弾する社会派小説であった。

何といっても普段日経新聞を読まない人々の間でさえ話題になった。こんな作品はもうしばらくは現れないだろうし、そんな小説を書く作家も残念ながら今はもういない。

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