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メンヘラ転活進捗④人生の責任者


「この人は、私の人生の責任を取ってくれない」

長く付き合い同棲していた彼と別れを決意した時。
大好きだった大学の教授の助言を無視して就活をしなかった時。
親と絶縁した時。
7年勤めた会社を辞めた時。

私の人生の大きな転機ではいつも痛感した。
「この人は私の人生の責任を取ってはくれない」
「自分の人生の責任を押し付けてはいけない」
はっきり言語化出来たのは最近だけど、いつもこの考えが私の腹を決めてくれた。
だからこそ、自分だけは自分の味方でいてあげなきゃと思い始めてから人生はとても楽しく、自分は強くなれた。

「無責任な発言」は”するもの”ではなく、多分“偶然生まれてしまっている”もの

毎日のように面接の予定が入り、とてもありがたいことながら皆様親切丁寧に大事な時間を使って私に向き合ってくださる。

転職活動をしている中で、多忙というか、書類選考から次の段階に運良く進むことが出来て。
浅い人との関わりが連z即する。
私はとても運よく、人と話すことがそこまで苦ではなく愛想を使うことも苦手ではないけれど、それでも…疲れる。

面接で会う方はほとんどの場合、【人生でもう2度と会わない】か【もしかすると今後数年間一緒に仕事をするかもしれない】かのどちらか。

体力的な疲れではなく、圧倒的な精神的疲労。
これを書いている今日も面接を1つ終え、いくつかの面接結果を待ちながら、次の面接予定が決まる事も待ちながら、故郷に帰省するスケジュールを悩んでいる。
久々にスケジュールが空くと、ほっとして、涙が出そうになる。

転職活動において参考にするものは様々だ。
・書籍、Youtubeなど著名人のアドバイス
・キャリアアドバイザーさんからのアドバイス
・家族、友人、恋人
・ネットにはびこる多くの情報(この私のnoteも含めて)
人によって何がためになり、何がためにならないか、は異なると思うし、相性もあると思う。
ただ、どんな場合でも、
今あなたにアドバイスをしてくれているその人はあなたの人生の責任を取ってくれない。

自分自身が真面目に、責任感を持ち、誰かの一言に心を左右されるタイプだったり、過去に同じ様な経験があって親身にアドバイスした経験があったり、もしくは生まれ持ったもの・後天的な性格形成のきっかけにおいて強い価値観や倫理観が心の中にあると、どうしても、
その時、
その場で、
その人から言われる言葉。
から受ける影響が大きくなりすぎることがある。
私は、ちょっと精神的に不安定な時期にはその時その場で言われたその言葉で、自分の全てが否定されたような気持ちになったり、逆に自分の全てが受け入れられたような気持ちになって依存してしまいがち。
それは、幼少期から自分の意見よりも他者の状況を優先してきた過去があるからで、今はそれを少しずつ乗り越えている最中。

同時にそれは、
こちらが勝手に向こうに重荷を背負わせてしまっていることでもある。
意外と人は、他人に対して無責任に発言をするもので、それは悪意や敵意によるものではなく、普通のこと。
価値観が違う。ただ、それだけで簡単に無責任な発言は生まれる。

「価値観の違い」とは

今回の転職活動。
最初に内定をいただいた会社さんとの最終面談面談(内定後、最終的に内定通知書を出す前に月給や手当、働き方の詳細を決定し承諾するもの。最終確認みたいな面談)をする前。
キャリアアドバイザーさんは、

「これは既に出ている内定を左右することはありません。本当に最後の所なので後悔のない様に、しっかり話し合いましょう!」

と背中を押してくれた。
しかし。
面談前に「給与の交渉をしたい」といってみると…

「内定をせっかく出してくれた会社に対して心象が悪くなり、最悪内定を取り消されてしまうかもしれないので繊細な質問ですよ(やめてください)」

と言い出した。
まるっきり手のひらを返してきたのだ。
…向こうも仕事だから。そう自分の心に言い聞かせはしたものの、こういう小さな発言と不信感はすぐには拭えない。
私は今、彼とほとんどやり取りをしていない。

人は、無責任。
というよりも、価値観が違うからこそ、相手にとって重要な事でも時に何気なく、何と無しの発言を投げかけてしまうことがある。
だからこそ、
・重要だと捉えていること
・本気で悩んでいること
・真剣に考えていること
は人それぞれに違う。だからこそ、すれ違う。

価値観が合う、というのは、同じ考え方や同じ価値観を持っていることではない。
何を重要と考え、何を大事にしているか、そのカテゴライズが近い事を言うのだと思う。

逆に価値観が合わない、ということは、
・どちらかの発言や考え方が間違っている
・思想が違う
などということではなく案外「何を大事に思っているかが違う」というだけだったりもするのだ。

例えば今特に話題になっているジェンダー、LGBTQに関する政治家の不用意で無責任な発言なども、たぶんその発言をした本人は無責任になろうと思っている訳でも何でもなく、
単純に自分に該当しない生き方に対して相当する価値観を持っていなかっただけなのだと思う。
もちろん政治家である以上、どんなマイノリティの方々(すでに現代ではそこまで少数のマイノリティでもないし)にも配慮すべき価値観を持って環境を改善していくことを仕事としているのだから許されざることではあるのだけれど。
たぶん、私達が簡単に「間違いだ」「思想がおかしい」と糾弾して解決する物ではなく、人間だから。
当事者じゃなきゃ、当事者が身内にいなきゃ、きっと持てない価値観があるのだと思う。

私だって、誰かにとっての本当に重要な人生の局面に、無責任な言葉を投げかけてしまっているのかもしれない。
こう考えると本当に怖いけれど、
「君は足が速いから陸上部に入った方が良いよ!」ってアドバイスされて陸上選手になってしまう人もいるだろうし、
「絵が上手いからデザイナーになりなよ!」ってアドバイスされて本当に画家の道を志す人がいるかもしれない。
逆に、
「言わない方が良いよ!」「やめておきなよ!」という言葉が、その人の未来の芽を無責任に摘み取ってしまっている可能性だってある。

人は、他人に無責任。
というより、価値観が違うことで、互いに無責任になってしまうことがあるのが普通の人間関係。
私はどうしても相手の言葉を信じすぎたり、疑いすぎたり、背負わせたり、背負いすぎたりするタイプだけれど。
人は意外と、他人に無責任なものだと思っておくことで強くなれる。

どれだけ愛した人も。
どれだけ尊敬した人も。
それだけ強く繋がった人も。
私の人生の責任はとれない。とりたいと言ってくれた人であっても、とれないのだ。
押し付けるわけには行かない。

だからこそ、自分だけは、自分の心に嘘をつかず。
自分の心、自分の意志は、自分が守る。
そのために、目の前に向き合っている人の意見はある程度ドライに受け流し、責任を押し付けてしまい過ぎないように気を付けなきゃ。

私の人生の責任は、私がとるんだ。

そう心に強く抱いて、誰のせいにもせず、自分を責めることはせずに転職活動最後まで進めていかなきゃと心に改めて強く思う。

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