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現代詩的な現代詩


現代詩的な現代詩。
書こうとしても書けない。
意識してもあんな風には書けない。


時に憧れ
時に嫉妬し
時にどうでもよくなる。


わたしが書く詩とは
全然違う次元にある現代詩。


あんな詩を書いてみたいと思うけど
それ以上に
あんな詩を書けなくても構わないとも思う。


どちらかといえば
わたしの書く詩は
歌詞みたいな詩だから
J-POPの歌詞みたいだから
いかにも「現代詩」って詩からは程遠いどころか
住む世界が違うと言っていいほど雰囲気が違う。


語彙の問題もある
技法の問題もある
勉強の問題もある
努力の問題もある
感性の問題もある
慣れの問題もある
そういった諸々の問題をひっくるめた上で
あんな詩を
書けるように目指していくか、書きたいと思うか。


そう考えると
そこまで引き受けた上で
ゼロから積み上げていく覚悟で
現代詩的な現代詩を書こうとは思えない。
現代詩的な現代詩を書きたいとは思わない。


たしかにすごい雰囲気がある。
ただならぬ重力に満ちている。
現代詩的な現代詩は
読む者に
ある程度の資質や
感受性や読解力や思考力を
知的に危うげに楽しげに求めてくる。


「一読など許さん!」といわんばかりに
当然のように
再読に導く種が随所に散りばめられている。


「速読などできませんよ!」といわんばかりに
ごく自然に
行きつ戻りつの読みに誘う間隙と感激が潜んでいる。


読む間における現在の在り方を変えるような磁場が
読んだ後における時間の在り方を曲げるような放射が
読むこと、書くこと、感じることの境界線を溶解させるうねりがある。
現代詩にはある
現代詩的な現代詩にはある。


読んでもわからない。
よく読んでもよくわからない。
何度読んでもちっともわからない。
そんな現代詩もある。
そんな現代詩的な現代詩はざらにある。


でも凄さは感じる。
上手く理解できなくても
きちんと咀嚼できなくても
わたしみたいな奴でも読めば凄いとわかる詩がある。
現代詩的な現代詩の中にはたしかにそんな詩がある。


そのような詩を読むと
書けるかどうかはさておき
書きたいかどうかはさておき
「いつかこれくらいの詩を書こう」と
「これくらいの深みを投げかける詩を書こう」と
「これくらいの凄みを匂わせる詩を書かなければ」という気概が湧く。


歌詞のような詩しか書けない。
J-POPの歌詞のような詩しか書きたいと思えない。
そんな私にも
現代詩的な現代詩は
大きな大きな重力を投げかける。

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【 初出 】

詩のブログ
『 橙に包まれた浅い青 』

2015年02月02日
「 現代詩的な現代詩 」


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