【再版記念・全文期間限定再公開!】『ウィトゲンシュタインの愛人』「訳者あとがき」【2020年8月7日~終了日未定】

ウィトゲンシュタイン

国書刊行会編集部の(昂)です。
弊社7月の渾身の隠し球であるデイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』の刊行を記念して、木原善彦さんによる「訳者あとがき」を期間限定で全文公開いたしましたが、なんと早々に再版決定につき、再度期間限定にて全文公開いたします(終了日未定)。

前回のnote記事でご紹介しました通り、「アメリカ実験小説の最高到達点」として、文学史上に唯一無二のきらめきを放つ傑作である本作とその作者についての、詳しい解説となっております。

作品・作家の紹介はもちろん、本書の原著刊行をめぐる作家マークソンに関する驚きのトリビアの紹介、すでにお気づきの方もいらっしゃったJ・G・バラードのパロディー「ウィトゲンシュタインの愛人」という意味深なタイトルに込められた意味、そして、この独創的な実験小説を翻訳するにあたっての工夫などについて言及しておられますので、ぜひ、お確かめください!

「訳者あとがき」(木原善彦)

まずはここで、日本でほとんど知られていない、デイヴィッド・マークソンという作家について紹介しておきたい。マークソンは1927年にニューヨーク州オールバニーに生まれ、2010年に亡くなった。
若いころには創作を教えるかたわら、娯楽的な小説を書き、中にはフランク・シナトラ主演で『大悪党/ジンギス・マギー』(1970年)として映画化された作品もあったが、真に注目を集めたのは彼が60歳の年に出版された実験的・野心的小説『ウィトゲンシュタインの愛人』(1988年)だった。英米の書評を眺めるとジェイムズ・ジョイスやサミュエル・ベケットの跡を継ぐ作家という見方が多い。アン・ビーティーやウォルター・アビッシュをはじめ、マークソンを高く評価する作家・批評家は多い。
『ウィトゲンシュタインの愛人』に関して、マークソンがあるインタビューで面白いことを語っている。
それによると、作家が持ち込んだ原稿を出版社から突き返された回数の記録は、(作家・芸術家トリビア情報マニアの)マークソンが知る限りでは、サミュエル・ベケットの『マーフィー』が持つ42回というのが最多だった。ところが、自身の『ウィトゲンシュタインの愛人』はその記録を塗り替え、54回も出版を断られたという。最終的にはドーキー・アーカイブ社がその原稿を本にして話題を呼び、たちまちそれがアメリカ文学史に残るマークソンの代表作となった。
『ウィトゲンシュタインの愛人』は、地球上にただ一人取り残された女性ケイトの独白(手記)のみから成る独特な作品で、彼女が過去の行動や身の回りのことを描写する合間に、さまざまな芸術作品や作家に関するトリビア情報が挟まる。

ニューウェーブSFの旗手J・G・バラードの有名なエッセイ「内宇宙への道はどちらか?」にこんな一節がある。

真のSF小説の第一号は――誰も書かなければ私が書こうと思うのだが――記憶を失った男が浜辺に横たわり、錆びた自転車の車輪を見つめ、その車輪と自分との関係の中にある絶対的本質をつかもうとする、そんな物語になるはずだ。

これに少しだけ手を加えると、『ウィトゲンシュタインの愛人』を的確に描写する次のような文章を書くことができる。

究極の二十世紀小説は――誰も書かなかったのでデイヴィッド・マークソンが書いたのだが――正気を失った女が浜辺の家に暮らし、日々の出来事や思い出をタイプライターで綴りながら、そこに記された言葉と自分との関係の中にある絶対的本質をつかもうとする、そんな物語だ。

ちなみに、本書のタイトルは『ウィトゲンシュタインの愛人』で、エピグラフにも、本文にも哲学者ウィトゲンシュタインへの言及はあるが、ウィトゲンシュタインの愛人は登場しない。では、このタイトルにはどのような意味が込められているのか?
この問題については、いろいろな答えがありうるが、最も分かりやすい考え方としては、「この小説自体が、ウィトゲンシュタイン哲学のパロディーになっているから」と答えることが可能だ。すると、なぜ「パロディー」を「愛人」にたとえているのか、という新たな難問が生まれるけれども、とりあえずは、語り手が女性であること、そしてウィトゲンシュタイン哲学とこの女の語りとの関係が「夫と妻」と称するにはそぐわないいかがわしさをはらんでいるから、というくらいの答えでやり過ごすことにしよう。
実際、その線に沿って「空虚なる充実――デイヴィッド・マークソンの『ウィトゲンシュタインの愛人』」(1990年刊)という本格的な論文まで書いたのは、夭折の天才デヴィッド・フォスター・ウォレスだった。ウォレス自身、『ヴィトゲンシュタインの箒』(これは邦題で、原題は『システムの箒』、原著1987年刊)という野心的作品でデビューし、ポストモダン小説(あるいはポスト・ポストモダン小説)の傑作『尽きせぬ道化(Infinite Jest)』(原著1996年刊、未訳)を発表して現代文学の最前線にいた作家だが、その彼が「おそらくアメリカにおける実験小説の最高到達点」と絶賛したのが『ウィトゲンシュタインの愛人』だ。そしてウォレスの言葉を借りるなら、この作品は「とても古い映画〔引用者注:ウィトゲンシュタインの哲学〕に奇妙な着色を施したもの」であり、「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の世界に人が暮らしたらどうなるか、を実践した小説」である。
こうした説明はいささか晦渋に響くかもしれない。しかし、実際の作品がいかに遊びとユーモア、知的断片と情感に満ちたものであるかは、読んでお確かめいただくしかない。言語の豊穣をきわめたジェイムズ・ジョイスから、言語の消尽をきわめたサミュエル・ベケットへと続く系譜――言語の極北を目指す探求――が、二十世紀末のアメリカでこのような〝空虚なる充実〞の傑作を生み出そうとは、おそらく誰も思っていなかっただろう。ついでながら、本書を読了後に『論理哲学論考』(「世界はそこで起きることのすべてだ」から始まり、「語りえぬことについては沈黙するしかない」で終わる断章形式で綴られる独特な哲学書)をひもとくと、きっと少しだけウィトゲンシュタインが近づきやすくなっているだろう。
 
なお、この翻訳の中ではケイトの語りの流れをできるだけ妨げないため註を最小限にしたので、少し長くなるが、ここでいくつかの補足的な説明と釈明をしておきたい。
まずエピグラフにあるジョージ・ゼンメルという人物はニューヨーク在住の画家でマークソンの友人である。
次に本文冒頭に、「最初の頃、私は時々、道に伝言を残した」とある部分は、原著の英語では明らかにヨハネによる福音書冒頭の「初(はじめ)に言(ことば)があった」を踏まえた表現で、当然、その重ね合わせは重要な意味を持っているが、日本語訳聖書に近い表現で訳すとかなり不自然になるので、あくまでも手記として自然な日本語に訳した。同様に有名な言い回しをもじった表現は作中に散見されるが、やはり極力、目障りな註釈や突出した文体の借用は避け、手記としての文体を重んじた。他方で、同じパターンの文型が繰り返されている部分については、それがこの小説が持つ独自の思弁的リズムでもあるので、日本語としてやや不自然になっても、同じ文型で訳すように努めた。
作中では多数の美術館、作家、哲学者、画家、音楽家、芸術作品についての言及があり、中には割註を添えた方が読者に親切と思われるものもあるが、語り手がその人物や作品について勘違いしていることに自分で気付いてしばらく後に修正することも多く、初出の時点で註を加えるにしても、正しい情報が出てきた段階で註を入れるにしても、註自体が〝 余計なお世話〞という印象は否めない。結果として、この種の項目については基本的に註を添えなかったが、人名表記は一般的なものに統一したので、語り手の持つ情報を裏付けたり、確かめたりする作業は、読者諸賢にお任せしたい。また、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの名は日本語ではダ・ヴィンチと略すことが多いが、英語ではレオナルドとするのが一般的で、原著でもレオナルドと記されているので、そうした部分について訳者は手を加えなかった。これも、名前の取り違え(例えば、「ジャック」・レヴィ=ストロース、「ジャック」・バルトというのは原著や訳書の誤植ではなく、明らかに語り手の記憶違いであり、作家のお遊びだ)や名前の響きで語りと連想の流れが生まれる本書の性質に鑑みての判断なのでご容赦願いたい。
さらに、地名表記(あるいはその発音)についても微妙な問題が存在する。語り手は例えば106ページで、「ニューヨーク州アムステルダム、あるいはシラキュース、あるいはオハイオ州トレドでも探索をしたという話はしたかしら」と言う。こうした部分では、同じ綴りの地名がアメリカ国内と欧州各国にあるのが時に故意に結び付けられ、時に勘違いで混同されている。具体的には、パレスチナのベツレヘムとペンシルヴェニア州ベスレヘム。オランダのアムステルダムとニューヨーク州アムステルダム。イタリアのシラクサとニューヨーク州シラキュース。ギリシアのイターキ島とニューヨーク州イサカ。フランスのバイヨンヌとニュージャージー州ベイヨーン。古代のトロイアとニューヨーク州トロイ。古代のコリントとミシシッピ州コリンス。イタリアのローマとニューヨーク州ローム。これらは原著の英語では区別されないが、日本ではそれぞれに違う発音の地名として知られているので、その紛らわしさを訳書で再現することは断念せざるをえなかった。

もう一つ、語り手がかなり詳細に取り上げる題材の一つがホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』などで語られ、数々の名画に描かれてきたギリシア神話関係の出来事とそれに関わる人物たちのことだ。これについても、本書で言及される人物・挿話を中心にして要点だけをここでざっと整理しておこう。
トロイア戦争の契機となったのは、トロイアのパリス(第二王子だが、将来国を滅ぼすとの予言があったため、イデ山に追放されていた)が、三美神のうちで誰が最も美しいかを判定した際、一種の賄賂として、最も美しい女ヘレネを与えられたことだ。ヘレネは当時、スパルタ王メネラオスの妻となっており、ヘルミオネという娘もあったが、駆け落ちみたいな格好でパリスと一緒にトロイアへ行く。怒ったメネラオスはトロイアに戦争を仕掛けるため、ギリシア中の武将を集める。イターキ島で妻ペネロペと息子テレマコスと暮らしていたオデュッセウスは戦争に駆り出されるのを避けるため狂人のふりをするが、鋤の前に置かれた息子を助けたことで狂人でないことがばれる。アキレスの母は息子が戦争で死ぬ運命だと知っていたので、アキレスに女装をさせて女たちの中に隠すが、これもばれてしまう。アキレスは一時期、戦争から身を引くが、友人パトロクロスがヘクトールに殺されたのをきっかけに再び戦に加わり、仇を討つ。クリュタイムネストラはギリシア軍総大将アガメムノン(メネラオスの兄でもある)の妃でヘレネの姉。夫がトロイアを目指すギリシア艦隊の出帆のために娘のイフィゲネイアを犠牲にしたことをうらんだ彼女は、10年続いた戦争から戻った夫をカッサンドラもろともに殺害する。その後、アガメムノンとクリュタイムネストラの娘エレクトラは弟オレステスと結託し、母を殺害することで、父の仇を取る。カッサンドラはトロイアの王女で、ヘクトールとパリスの妹。予言の力を持つが、周囲にはそれを信じてもらえないという運命を与えられている。トロイア滅亡後、アガメムノンの女奴隷にされて、屋敷に連れ帰られたとき、アガメムノンと自分が風呂場で殺害される場面を幻視し、実際、その通りのことが起こる。オデュッセウスは戦争が終わった後、さらに10年かかって故郷に戻り、妻ペネロペ(20年間操を守ったとされる)と息子テレマコスに再会する。
 
ここまでくどくどと解説めいたことを記し、註釈のような説明を加えてきたが、こうした背景をすっかり頭に入れていなければ『ウィトゲンシュタインの愛人』が楽しめないというわけではない。知っている作家や画家がところどころで言及されるのを楽しむのも一つの読書法だし、記憶の不確かな語り手の話が行ったり来たりする様を客観的に眺めるのも別の楽しみ方だ。いずれにせよ終盤では、いくつかの伏線的断片が回収されて語り手の境遇が明らかとなり、本書がただの駄弁でも、衒学的独白でもないことが分かってくることは間違いないだろう。

大好評再版『ウィトゲンシュタインの愛人』!

以上、いかがでしたでしょうか。発売以来「オールタイム級の傑作」の評価を各所でいただいている本書『ウィトゲンシュタインの愛人』の美しい造本を、弊社TwitterFacebookInstagramなどにてもご覧ください。

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