小倉城庭園 書院棟組頭(館長)

小倉城庭園から、城下町小倉の面白さをお伝えします。

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マガジン

  • 城下町小倉~小倉城・小倉城庭園~

    福岡県北九州市に立つ小倉城。その周辺エリアである城下町小倉。その歴史や文化を掘り下げるマガジン。小倉城庭園館長他、地元の有志で運営します。

最近の記事

小倉城 石垣の秘密~西の端へ~

ブラタモリで小倉城が紹介された際に、『堀から少し歩いただけでまたすぐに堀?どこまでも守りを意識した小倉城』ということで、城としての防御力の高さについて語られていたのも、記憶に新しいところです。 その防御力の高さを体験し、「どこまでが小倉城だったのか」を調べるため、まずは西の端へ向かってみました。 小倉城は、紫川を中心として西側を流れる板櫃川と東側を流れる寒竹川(神嶽川)を利用し、城下を丸ごと河川や外堀で囲んでいました。紫川河口に常盤橋、上流に豊後橋を架けて、往来できるよう

    • 足立山妙見宮と古市古流

      足立山妙見宮の春季例大祭で斎行された「茶道古市古流」の献茶式を見学しました。足立山も、古市古流も、江戸時代の豊前国小倉藩小笠原公と繋がりがとても深く、そのコラボ企画ということで足を運びました。 足立山には、小笠原藩の世継が正月に参拝していたという言われもあり、足立山の麓にある福聚寺は小笠原藩の菩提寺でもあります。また、古市古流は小笠原家の茶道師範だったそう。小笠原の文化を語るには欠かせない要素と言えるでしょう。 儀式の様子を見ながら、それぞれについて少しご説明させていただきま

      • 「横山大観展」コラボ!

        小倉城庭園と言えば、日本文化を海外から旅行で来られる方々に紹介することも、大きな役目のひとつです。多くの海外の方が、お抹茶を楽しむことで、茶道を体験していただいています。 お抹茶を英語で世界に紹介した人と言えば、1906年に、ニューヨークで自身の英語で『茶の本』を出版した岡倉天心です。私たちも岡倉天心のような精神を大切にしながら、しっかり日本文化を伝えていきたいと思う日々です。 美術館×小倉城庭園コラボ企画実施! このたび、北九州市立美術館50周年「横山大観展」とのコラ

        • 小倉城庭園入場者10万人達成

          令和5年度は小倉城庭園に来ていただいた方々が10万人を超えるという、とても嬉しい結果となりました。来ていただいた皆様はもちろんのこと、運営側として関わっていただいた皆様にも、多くのご助力をいただきました。心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。 小倉城庭園ができた初年度(平成10年)は、9月末開館から年度末(3月末)までと開いている期間が短い中で9万人超の方に来られていますので、もちろん多くの方が来られたのですが、年間10万人を超えたのは開館以来25年目となる今年

        小倉城 石垣の秘密~西の端へ~

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        • 城下町小倉~小倉城・小倉城庭園~
          18本

        記事

          小倉城 石垣の秘密~誰が積んだ石垣なのか~

          今回も、更に深堀した小倉城の楽しみ方をお伝えします。前回は炎上した小倉城とその焼けた石について触れました。今回は、それぞれの石垣について誰が積んだのかという話をします。 小倉城、「南蛮造り」の石垣 小倉城を現在の規模にしたのは細川忠興で、「南蛮造り」と呼ばれる、円教師の土木技術が用いられた独特の建築法でした。 多くの石垣には「野面積(のづらづみ)」という技法が使われています。形も石質も不揃いな自然石を積み上げているため、一見崩れやすそうに見えますが、重力による移動、転落

          小倉城 石垣の秘密~誰が積んだ石垣なのか~

          小倉城 石垣の秘密~焼けた石垣~

          今回は少し深堀して、小倉城の更なる楽しみ方をお伝えしようと思います。前回の「白黒騒動」について書いた記事の中で、小笠原忠固公の世に小倉城が燃えた話を少し書きました。関連する形で、小倉城の「石垣」について触れていきます。 小倉城の目玉と言えば、やはり「石垣」です 小倉城天守閣は天保8年(1837年)に火災で焼失しました。また慶応2年(1866年)8月1日、長州征伐の「小倉口の戦い」際に、お城を自ら燃やし逃れました。 そして小倉城は昭和34年(1959年)に再建されました。

          小倉城 石垣の秘密~焼けた石垣~

          小倉城武将隊の新作舞台「白黒騒動」への予習

          前回の記事で、小倉城武将隊の新作舞台が小倉藩の御家騒動である「白黒騒動」だとお伝えしました。舞台の内容について私は全く知らないのですが、作品を楽しむためには予習が必要だと思いますので、簡単にまとめてみます。 小倉藩の御家騒動は、5代藩主小笠原忠苗時代の「小笠原騒動」と6代藩主小笠原忠固時代の「白黒騒動」の二つがあります。前者については、これらの記事にまとめていますのでご覧ください。 白黒騒動の前段 江戸幕府の第11代将軍(在任:1787年 - 1837年)徳川家斉(とく

          小倉城武将隊の新作舞台「白黒騒動」への予習

          小倉城武将隊 ランチパックになる「小倉城桜まつりへ向けて~小倉藩、2つの御家騒動」

          今回はご存知「小倉城武将隊」について大きなお知らせが2つあります。 まず、ひとつめ。 ヤマザキパンさんの、ランチパックに採用されました! 小倉城の歴史を演劇で伝える「小倉城武将隊」は、江戸の小倉藩を舞台にした演劇を既に3本完成させており、そのどれもが大好評で舞台の際には毎回多くの来場者でにぎわい、最近は各地からオファーをいただき出張案件も増え、城や庭園でもほぼ毎日どなたかが来場者をお出迎えいただき写真撮影も快く応じられており、認知度も大幅アップ中ではあるのですが… ま

          小倉城武将隊 ランチパックになる「小倉城桜まつりへ向けて~小倉藩、2つの御家騒動」

          小倉城庭園の成人式と、連歌、かるた、風呂敷

          今週の小倉城庭園は、楽しめる和のイベントが盛りだくさんで、まさに小倉城庭園らしいイベントだと言えるようなものばかりでした。その中には、小倉城庭園主催ではないイベントもありましたので、少しだけ紹介します。 200年振り?に復活した小倉城連歌の会 豊前国文化事業団さんによる「小倉城連歌の会」が開催されました。連歌をリードされたのは、行橋の今井須佐神社様で室町時代から約500年の間、一年も途絶えることなく連歌の会を続けてこられた流派の皆さんです。詳細はこちらのnote(小倉城マ

          小倉城庭園の成人式と、連歌、かるた、風呂敷

          1+1は結ぶと別の形になる~小倉城庭園企画展『春を包んで風呂敷展』開催

          2月17日より、ふろしき研究会さんにご助力いただき『春を包んで風呂敷展』を開催しています。ここでは、風呂敷にまつわることや、小倉城庭園との関連などをお伝えします。 風呂敷という言葉の由来 「風呂敷」の名前は「風呂」で「敷く」布が由来となっています。室町時代までのお風呂は今とは違い、蒸し風呂だったそう。スノコの下から薬草などを燃やして煙を出し、祈祷や疫病対策などに利用していたところから始まったとのこと。 そのスノコに直に座ると熱いので、蒸気を均一化するためにも、汗を吸わせる

          1+1は結ぶと別の形になる~小倉城庭園企画展『春を包んで風呂敷展』開催

          小倉城庭園の香道講座

          小倉城庭園の香道講座 小倉城庭園では様々な「道」のお稽古講座が開催されています。 その中でも今回は「香道」についてお伝えいたします。香道は大変面白いです。館長オススメ!講座です。小倉城庭園では志野流(しのりゅう)の講座が開催されています。 志野流は、室町時代に始まり現在まで続く香道の流派です。小倉城庭園で志野流の講座が開催されることになったのは、小倉藩との関係性が深かったためだと聞いています。月に1度の講座が、第3月曜日午前と午後、第1火曜日午後、開催されています。月曜午

          復元された「小倉織の袴」お披露目の巻

          江戸の小倉三大名物 2022年4月に、この文章を書いている人は小倉城庭園に就任したのですが、「小倉城庭園らしさとは何だろう」と考えるところからがスタートラインでした。「江戸時代らしさ」がそのひとつになると考えたときに、学芸員の先生から江戸の小倉三大名物について学びました。それが、小倉織・三官飴・火打ち石でした。私は「まず始めの企画展は小倉織でいきたい」「三官飴と火打石も就任期間中に何かしら取り上げたい」と考えました。 小倉城庭園の企画展【小倉織~その技と美~】 そこで、

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          私たちのまち「小倉(こくら)」を考える#4 ~小笠原騒動~

          多様性の街、小倉 私たちのまち「小倉(こくら)」を考えるシリーズも第4回まで進んできました。 ここまで大まかに、#1縄文時代~、#2平安時代~、#3鎌倉時代~、の小倉についてお伝えしてきました。小倉が「人や技術が交わる多様性の街」であるということがテーマのひとつでした。 江戸時代の始まりと共に小倉へ入ってきた細川忠興は、茶道や禅の観点のみならず、街づくりに関しても今の小倉の祖と言え、小倉が多様性の街であること体現しているような人物です。自然の石の形をそのまま石垣としてく

          私たちのまち「小倉(こくら)」を考える#4 ~小笠原騒動~

          私たちのまち「小倉(こくら)」を考える#3

          為政者が変わり続ける街 小倉 「為政者が変わり続けるということは、文化も変わり続けるということ。そのようにして変化を続ける価値観に対応し続けなければならなかったことが、小倉らしさではないか」と前回の記事に書かせていただきました。 今回は江戸時代初期に細川忠興が小倉に入るまで、どのような歴史が積み重なっているのかを簡単にお伝えします。小倉と言えば豊前国の城下町。まずは豊前国の歴史から。 豊前国の成り立ち 7世紀末、律令制の時代に、豊国を分割して豊後国とともに設けられたと

          私たちのまち「小倉(こくら)」を考える#3

          私たちのまち「小倉(こくら)」を考える #2

          来園されたお客様から「おぐらじょうの入口はどこですか」とお尋ねいただくと、少し悔しい気持ちになります。「こくら」の知名度をもっと上げていく必要がありますね。頑張ります。 奈良時代までの小倉の地 前回は奈良時代までの小倉(こくら)についてお伝えしました。万葉集にある「企救の浦」が小倉の語源という説をご紹介しました。 私の不勉強で、奈良時代以前の資料等からは「小倉」という文字を見つけることはできませんでした。ぜひ、小倉の文字を発見されましたら、ぜひご教授ください。こちらの記

          私たちのまち「小倉(こくら)」を考える #2

          私たちのまち「小倉(こくら)」を考える #1

          福岡県北九州市小倉北区にそびえる小倉城。その下屋敷として小倉城を望む日本庭園が小倉城庭園となります。このnoteは、小倉城庭園の中の人が、小倉城や小倉城庭園周辺の歴史や文化を掘り下げていくことを目標に始めました。今後もお付き合いのほど、どうぞよろしくお願いいたします。 小倉城庭園はお庭だけでなく、茶席や、博物館相当施設、研修室などを備えた、人と文化が交わる拠点としてご利用いただいています。 このnoteは「小倉の歴史」「小倉城から歩いて行ける、おすすめ飲食店」「庭園の講座

          私たちのまち「小倉(こくら)」を考える #1