小倉城 石垣の秘密~誰が積んだ石垣なのか~
今回も、更に深堀した小倉城の楽しみ方をお伝えします。前回は炎上した小倉城とその焼けた石について触れました。今回は、それぞれの石垣について誰が積んだのかという話をします。
小倉城、「南蛮造り」の石垣
小倉城を現在の規模にしたのは細川忠興で、「南蛮造り」と呼ばれる、円教師の土木技術が用いられた独特の建築法でした。
多くの石垣には「野面積(のづらづみ)」という技法が使われています。形も石質も不揃いな自然石を積み上げているため、一見崩れやすそうに見えますが、重力による移動、転落を防げるように組み合わせているので、崩壊する可能性は低く、石と石のすき間には「間詰石(まづめいし)」と呼ばれる小石を詰めています。
端の部分には「算木積み(さんきづみ)」という技法が使われています。石垣の隅角部分、直方体の石材の長辺と短辺を交互に組み合わせて積む方法で、計算や占いに用いる算木の形に似ていることから、この名で呼ばれています。
細川忠興以前の石垣
小倉城がこの地に築かれたのは約700年前とも言われているが詳細はわかりません。戦国時代には歴代城主が何度も交代しています。その辺りはここに詳しく書きました。
私たちのまち「小倉(こくら)」を考える#3|小倉城庭園 書院棟組頭(館長) (note.com)
また、上記の記事にも書きましたが、細川忠興より前に、毛利氏が積んだとされる石垣も残っています。
天守閣前の石垣
天守閣前の石垣は、趣が変わって、直線で切り出された石が使われています。こちらは後の世に陸軍が積んだ石垣だと言われています。ここの部分は明確に違いがわかります。
石の見分け方
複数の時代に渡って作られている小倉城の石垣ですので、どの時代にどの石が積まれたのか、気になりますよね?
そこで、プロフェッショナルから伝授された見分け方をお伝えします。
石を切り出す際には「矢」という楔(くさび)を使って、石を割ります。まず、割りたいラインに沿ってノミで穴(矢穴)を、切り取り線のように直線状にいくつも掘っていきます。その穴に鉄製の矢を差し込み、上から叩くと石は左右に割れます。
その、矢穴の、幅が、時代によって違うらしいのです。わかりやすいのは陸軍時代の矢穴です。とても細くなっています
細川忠興時代の矢穴は幅8㎝くらいだと専門家に伺いました。この辺りが細川時代ですかね。やはり、細川時代の石が多くなっています。
小笠原時代の矢穴はそれより少し小さいと聞きましたが、どれが小笠原時代のものかはわからず。
正面の石垣にも、色が違う(白い)石があるのですが、これは遠くてわからないですが、8㎝ですかね?石の色が違うので、切られた場所が違うのではないかと思うのですが…まだまだ謎が多いです。
小倉城に限らず、石垣のあるお城に行ったら、石をひとつひとつ見てみるのも面白いかもしれません。矢穴ひとつからも昔の職人技術を目の当たりにすることができます。これも、城を見る面白さのひとつです。
次回は、嬉しいニュースについてお伝えするか、小倉城の周辺に残る石垣についてお伝えする予定です。お楽しみに!
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