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私たちのまち「小倉(こくら)」を考える#3

為政者が変わり続ける街 小倉

「為政者が変わり続けるということは、文化も変わり続けるということ。そのようにして変化を続ける価値観に対応し続けなければならなかったことが、小倉らしさではないか」と前回の記事に書かせていただきました。

今回は江戸時代初期に細川忠興が小倉に入るまで、どのような歴史が積み重なっているのかを簡単にお伝えします。小倉と言えば豊前国の城下町。まずは豊前国の歴史から。

豊前国の成り立ち

7世紀末、律令制の時代に、豊国を分割して豊後国とともに設けられたとされる豊前国。奈良時代、聖武天皇の詔によって作られた豊前国国分寺跡には今も美しい三重塔が建っています。もともとの国分寺は、大友宗麟の兵火により焼失しましたが、江戸時代に復興したと伝えられています。

みやこ町「国分」にある国分寺

ちなみに、前々回の記事で発掘調査報告書を紹介しましたが、下屋敷跡(小倉城庭園のある場所)からは、豊前国国分寺と同形の瓦が出土しています。ということは、同じような寺院があったということでしょうか。興味の尽きない謎のひとつです。

庭園に実物を展示していますので、ぜひご覧ください

もうひとつ余談なのですが、豊前国にある神社の由緒には「大友宗麟の兵火によって焼失」というキーワードが多く出てきます。「小倉は文化や歴史が続いていない」と言われますが、歴史を継承する拠点である神社等が大友宗麟に、かなりの割合で焼かれているとなると、文化や歴史も失われてしまったことは、しょうがないのかなと。

豊前国とは誰のものだったのか

鎌倉時代に「少弐氏」(もとは武藤氏)が北部九州の守護として赴任しました。その頃、今の地名にもあるような「門司氏」「吉田氏」「麻生氏」「規矩氏」「長野市」「曽根氏」といった馴染みのある名前の御家人たちがいたようです。元寇の際には豊後の「大友氏」が活躍を見せています。少弐氏は足利尊氏が九州で再起した際にも名前が見えます。

室町時代、大内氏が豊前国への影響力を強くしていく中、大内氏と大友氏の争いの中で少弐氏は衰退します。大内氏が敗れた後は、毛利氏と大友氏の戦いの舞台となります。毛利元就によって、永禄12年(1569年)に小倉に城が建てられました。毛利元就が撤退した後、小倉城主となったのが高橋鑑種という人です。高橋鑑種は、大内氏と大友氏と毛利氏の間で興味深い動きをした人ですので「小倉城ものがたり」をぜひお読みください。

小倉城HPには「小倉城ものがたり」という歴史記事が多数あります

黒田官兵衛に落とされた小倉城は、秀吉の配下であった森吉成(後の毛利勝信)に与えられます。関ケ原の戦いで西軍についた毛利は攻められ、またもや小倉城は黒田に落とされます。こちらも興味深いストーリーが多くありますので、毛利勝信の話も「小倉城ものがたり」をご覧ください。小倉城に関する歴史に興味がある方については「小倉城ものがたり」がおすすめです。

小倉城は誰が建てたのか

1569年に毛利元就が小倉城を築城し、1602年に細川忠興が大改修を行ったと伝えられています。

ただ、『小倉市誌』(上巻)の9ページに、以下のような記載もありますので紹介します。要約すると「いつから小倉に城が存在したかはわからないが、文永の時代にはあったようだ」という記述です。

小倉城の沿革を記せるもの、春日信映の記せる「倉城大略誌」以下数種あり。蓋し足利時代の城主の変遷など記せるもの概杜撰なれども…(略)
(引用の中の引用)「倉城大略誌」
豊前国規矩(後に企救とす)郡到津郷小倉之城(俗伝に古は勝山の城と云、又勝野の城とも云いし由)は古城なりと云い其の開闢の時代を伝えず。ある伝に文永頃は緒方大膳亮惟、豊前小倉の城に居り、智謀仁勇を持って威を震うと也。

小倉市誌(上巻)

文永とは鎌倉時代です。「文永の役」と書くと元寇の流れでご存知の方も多いのではないでしょうか。小倉について#1の記事にも書きましたが、下屋敷跡(小倉城庭園がある場所)からは、勝山(小倉城がある地)に人が住んでいたことをうかがわせる出土品が多数あります。この記事の前半に紹介した瓦からは寺院があった可能性を感じます。勝山には何かしら建物はあったと推察されます。

これまた余談ですが、『小倉市誌』の22ページには「小倉城の場所には栄西が庵をたてて指月庵と名付けて居た」という記述もあり、趣の深い場所だったのだなと感じます。今の小倉城も日本百名月に選ばれていますし、「指月庵」という名前も、同じ月を指していたのかなあと思わせます。栄西と言えば、日本の禅において多大な貢献をした僧で、日本の茶祖とも言われた人物です。利休七哲である細川忠興が城主になることを考えると、何かしらの影響があっても良さそうだなと思います。

小倉城・小倉城庭園から望む月は「日本百名月」

私たちの小倉城

今、私たちが目にしている小倉城や城下町小倉と言えば、1602年に細川忠興が大改修し入城した時代のものがほとんどです。しかし、石垣の一部に、毛利元就時代のものが残されています。下記がその境目です。

ちょっとピンぼけしていますが、八坂神社から小倉城に上がる道の途中から見えます

1467年に始まった応仁の乱(1477年まで11年継続)から、1602年の細川忠興の入城までの135年間に、大内→大友→高橋→毛利→毛利(森)→黒田→細川と7回も為政者が変わったわけですね。平均すると20年に1回、殿様が変わっています。北九州市が市政59年目で4人目の市長を迎えたのと、ほぼ同じペースです。戦乱の世とは言え、住民は大変だっただろうなと思う次第です。

そのたびに、文化や文脈が違う殿様だったわけですから。多様性を受け入れる土壌が育つというものですね。「小倉とは何か」について考える際には覚えておきたい観点です。

多聞口門の石垣、毛利元就の時代に積まれたもの?

また、変化を続ける街においても、変わらないものがあるのだろうと思います。それも「小倉らしさ」かもしれません。例えば「主君がいなくなっても民のために撤退戦を続けるもののふたち」のような繰り返される似た歴史などもあります。それはとても興味深いテーマで、「北九州らしさ」とも言える話なのですが、また別の機会に。

追伸:この続きとして、順番から言っても、また、小倉とは何かを考える上でも欠かせない「細川忠興」の話をしていきたいのですが、細川家に関しては、私よりも圧倒的に詳しいメンバーがいますので、そちらに譲る予定です。小倉城マガジンの中で共に書いていきたいと考えていますので、小倉城マガジンをフォローしていただけると嬉しいです。→こちらから


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