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小倉城武将隊 ランチパックになる「小倉城桜まつりへ向けて~小倉藩、2つの御家騒動」

今回はご存知「小倉城武将隊」について大きなお知らせが2つあります。

まず、ひとつめ。

ヤマザキパンさんの、ランチパックに採用されました!

正直びっくりしました

小倉城の歴史を演劇で伝える「小倉城武将隊」は、江戸の小倉藩を舞台にした演劇を既に3本完成させており、そのどれもが大好評で舞台の際には毎回多くの来場者でにぎわい、最近は各地からオファーをいただき出張案件も増え、城や庭園でもほぼ毎日どなたかが来場者をお出迎えいただき写真撮影も快く応じられており、認知度も大幅アップ中ではあるのですが…

まさかランチパックの表を飾ることになろうとは。

小倉城の魅力知名度向上のみならず、地域の歴史教育を目的に、本格的俳優陣が演じる「スーパー城エンターテイメント集団」である小倉城武将隊が、まだ結成してたった1年半しか経っていない小倉城武将隊が、僕らのランチパックに採用されるなんて驚きです。

それから2つ目

新作「小倉城ものがたり」第4話が完成間近

「小倉城さくらまつり」の4月6日(土)7日(日)に上演予定とのこと。

そしてなんと、今回は小倉小笠原藩の御家騒動である「白黒騒動」がテーマ。第3話の「島原の乱編」が涙すら誘う感動の舞台だった記憶も新しく、更に期待が高まる中での「御家騒動」が主題とのことで、どのような舞台になるのか楽しみです。(もちろん舞台の内容は私には知らされていません)

そうなりますと、もはやひとりのファンに過ぎないである私ができることと言えば、御家騒動の予習です。

前の記事に簡単に触れましたが、大切なことなので再度予習していきましょう。ポイントなのは御家騒動は2回あったということです。その2回の御家騒動は繋がっているのかもしれませんので、合わせてご紹介します。

1回目は「小笠原騒動」と呼ばれ、先日の平成中村座の舞台としても馴染みがあろうかと思います。豊前国小倉藩が第5代藩主小笠原忠苗(おがさわら ただみつ)の時代(1791~1804)の話です。

2回目が「白黒騒動」と呼ばれ、今回の小倉城武将隊の舞台としてご覧いただくものになります。

このnoteでは、まず「小笠原騒動」やその時代背景についてお伝えします。以前の記事はこちら。

小笠原騒動概要

先代である忠総の時代から、富士山爆発(1707年)の救援金や、幕府からの工事依頼、密漁船の対策、享保の大飢饉(1732年)などによって、危機的な財政状況に陥っていました。

(享保と言えば、享保の改革。中学校で習いましたよね)

享保の改革(1716年~)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された改革です。寛政の改革や天保の改革と並ぶ三大改革となります。日本中で厳しい時代が続いていた中、小倉藩では、安永6年(1777年)犬甘知寛(兵庫)(いぬかい ともひろ)が家老に就任。

犬甘の藩財政改革により、寛政10年(1798年)頃には財政も好転し銀8千貫の貯蓄ができ、翌年には軍用金約十万両を藩主忠苗・世子忠徳父子に披露しているという話も。しかし、その犬甘兵庫知寛と小笠原帯刀長稙のふたりの家老が対立した結果、兵庫は失脚、藩主忠苗も隠居に追い込まれました。犬甘は無実の罪により入牢しそこで非業の死を遂げました。

財政は好転したと言っても藩の収入と言えば、「税」に他なりません。質素倹約や、新しいビジネスを開発したと言っても、ベースになるのは「米」です。民は大変だったのではないでしょうか。もともと飢饉で、とてもとても厳しかったわけですし。

忠苗自身も、これら一連の騒動の責任をとって、文化元年(1804年)に家督を養子の忠固に譲って隠居しました。

大甘兵庫が(おそらく)領民に恨まれながら貯めた小倉藩の財産は、次の藩主である忠固がとある目的のために使ってしまい、さらなるお家騒動に繋がっていきます。その話が武将隊の演劇で見れるなんて楽しみが過ぎますね。小倉城武将隊のHPを眺めて待ちましょう!

では、続きは次回です!お楽しみに。

僕らの小倉城武将隊



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