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鼓動という治癒-こころの治癒⑱

(心のカタチより)

人は案外と考えるということに慣れ親しんでしまっているのかも知れない。それは考えることを"良し"として、正しいとも思い込んでしまっているとも思える。それが本音(きもち)と同じなら良いが、そうでなければ心悩ませ、時には病(やま)させもする。

前回「どうしたいのか?」の話をしました、その返答には"欲"と"当たり前"があり、自身の”欲”が様々な言動を湧き起こしている。何故、そう言動するのか。そこには”幸せになりたい”という”当たり前”に気づけずに本音を見失わす話でした。

人とは、”欲”を持つと出来るものも出来なくなる”もの”です。それはその理由(よく)を目的として”当たり前”な気持ちに共感出来ないことにある。本来の本音が目的になり、その理由が伴う”もの”。

”気持ちのままに”とはそういう”もの”

人はもともとそんな大きな”欲”は持たない。”気持ちのままに”居られれば十分と知っている。だが、いろんな物事が感情を湧かし、出来るものも出来なくさせている。ただ、気持ちのままに”幸せになりたい”だけなのに。”欲”を紐解けば結局はその目的しかないのに。

「教育と道徳」

人は、小さな頃から”学ぶ”ことを教育される。そこには”考える力”や”思う力”を身につける。これらは、今後の活き抜くための礎(いしずえ)となり不可欠な大切なこととなる。

但し、この学びには算数の公式のように確立された事なら、その答えを考え求めることが出来るが、公式のない人生には答えが導く術がない。それは、心という方程式を考えた時に起きる。

ただ。この頃の教育には集団教育が伴う、これは”人が独りでは活きられない”ための未来のチカラを育てる。それが”道徳”である。この道徳が”ひと”として大切な礎となり、人のこころを感じ合うチカラを引き出す。それは元々”ひと”のこころに持っている。

心は子供の頃にその漢字とその意味ぐらいは学んでいるが、それだけ。それ以上学ぶことがない代わりに”道徳”を学ぶことになる。それが”心を知る”代わりに心を支え合い活き抜く知恵となっている。だから、今も活きている。

そんな中で”心の病”と言われる病名を多々名付けられる。”名付けられる”とは、赤ちゃんがその病に決してかからないことを云う。その病に侵されるのは決まって”考える”や”思う”を学んだ人だからだ。それは何故か。

それは、肝心な”こころ”を学んでないから心の答えなど知る由もない。それが物事に起きる悩み等の答えを導けず病を発症させる。人は子供の頃の教育にも道徳にも心という”もの”がどこにあるのか。どんなカタチをしているのかさえ学んでない。

だから自分に足らない”もの”。
心を知る必要が治癒のはじまりとなる。

「心を知らない」

教育では、漢字と意味を学ぶが、心についてそれ以上習うことはない。その代わりに道徳では、心を支え合うことや”ひと”としてどうあるべきかなど、心のあり方をイメージとして学んでいる。

それは、教える立場の方も子供の頃に学んでないから仕方がないことである。それを”心を知らない”と云う。

しかし、道徳で心のイメージを学び、そのイメージには”それが良いこと”として心を知ったように思わせる。

そうイメージするのは、誰もが『心を持っている』ことは知るから出来ている。そして、そのイメージは自身のこころに気づく教えにはなっている。

人は”心を知らない”代わりに”心を持っている”事だけは決して忘れることがない。たとえ感情で見失うことがあっても、忘れはしない。

その不動なこころを忘れることがなければ元(きもち)に戻るれる証となる。その証は道標(みちしるべ)になり、”自分はどうしたいのか”と云う未来の答えを納得させる。あとはそこに向かう道標を見失わない歩む方法を知ればいい。それが治癒を促す。

自分たちは心を習う事が欠け、”考える力”や”思う力”を自分のために使い切れてない。だから、その力を感情に使わせ、歩むべき道を見失い遠回りする癖を身につけてしまった。

”心を知らない”とはそういうこと。

「鼓動という治癒」

人は”心を知らない”代わりに道徳で心のイメージを創り糧に活きてきた。ただ、そのイメージだけでは”心を知らない”という不安定が心を病(やま)しもしたりする。ならば、その不安定を正すにはその”もの”を知る必要がある。

ここ”心のカタチ”で数々の話を読まれた人たちは、もうそれに気づいているはずです。心という”もの”を知り使い熟すことが治癒となると。。。

自分たちは心を持つと知ります。
その心が”幸せになりたい”と願うことも知ってます。
誰もが”幸せ”を好むことを。
それには”気持ちのままに”居ることで満たされます。
心はその判断をする”もの”として存在します。

心が”もの”ならば。
それは実感できる”もの”と判り得ます。
その実感は”鼓動”により解るのです。

”鼓動”は誰もが知る心臓の脈打ち。その”鼓動”は早くも遅くもなります。それは”ひと”の心の状態を現すのです。

それは。
心に”鼓動”が繋がっていると云えます。その”鼓動”は、幸せであれば穏やかに脈打ち、感情が高ぶれば高ぶるほど強く脈打ちます。それがこころのシグナルです。そのシグナルが心を実感させるのです。

そして、ここまでが誰もが知り得る知識でした。

ただ”心のカタチ”で実感する”もの”だけなら多くの話にお付き合いいただいた方々に意味をなくします。それは『鼓動という治癒』を知ってこそ本当の実感となるからです。その実感(もの)をこれから扱う側になるのです。自身の”こころ”のために。。。


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