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鼓動のチカラ-こころの治癒⑲

(心のカタチより)

自分たちは、心を使うか使われるかの二択で人生を歩んでます。それは気持ちのままに活きるのか、感情に囚われるのかの違いです。それは幸せを”感じようとするのか感じようとしないのか”の違いとなり、そのどちらを選ぶかは自分次第となるのです。

前回「鼓動という治癒」の話をしました。それは鼓動が心に繋がりどんなに感情が高ぶっていても、脈が心の状態を知らせてます。その鼓動を感じるか感じないかは自身の自由ですが、幸せになりたいなら鼓動を感じるだけでなく、使う側になるのです。

しかし、鼓動を使う側とは何でしょう。
人が悩みを抱えると幸せでなくなるのは誰もが知ること。それは心に負担をかけ病(やま)してしまうことも誰もが知ってます。それがどれほど辛く嫌なことか。そうなった方しか分らないことかも知れません。

そうだとしても自分たちには、ふたつの権利があるのです。それは悩みを解決するのが先か、心の負担(ふこう)を解消するのが先かです。それが自分次第で選べれるのです。ただ、答えが見つけれずにいる悩みを優先する理由はないはずです。

悩みは一旦そのままにして、今より悪くならなければ”良し”とします。それより心の負担を解消しなければ病となります。それに心の負担だけでも解消すれば、それが自ずと悩みも薄れます。それが”鼓動を使う側”にあるのです。

「こころの治癒とは」

まず”こころの治癒”の治癒するとはどんな事か知ることから始めます。例えば怪我や風邪などの治癒はその患部を治します。怪我はすり傷や骨折した患部が判りその患部を治します。風邪などの病気も同じ。ウイルスなどに侵された患部を薬で治します。

それもこれも患部を知ることで、その疾患の程度や症状を把握することで、効果的な治療を施し治すのです。それが”治癒”となるのです。ただ”心の病”はどうなれば治癒と云えるのでしょうか。

もちろん、病に侵された心を治せば”治癒”となりますが、その心がどこにあり、どんなカタチをしているかさえも知らずに治そうとしているのです。だから、治す患部が解らなければ、心が治癒したのかも判らないのです。それでは患部(こころ)は治ることなくじゅくじゅくさせてしまうのです。

今まで心の何を知って活きてきたのか。その患部となる心を知ろうとせず都合よく治そうとしているのかも知れません。もし。先生と言われる人も患部を知らず手探りで治そうとしているのなら、更にじゅくじゅくさせるのかも知れませんね。

ご自身も、先生も解らず”こころの治癒”が出来るのか。疑問を持たすことはあっても”治癒”を理解することはありません。

それでも治癒と云う言葉には、そのヒントがあるのです。それは時の如く「癒やすことが治すこと」です。怪我にしろ病気にしろ結果、心を不幸にしてます。その心を癒やしてこそ”治癒”となるのです。

心の病はその癒やすべき心自体が病してます。やはり心を癒やすしか”治癒”はないのです。この癒やすとは、心が不幸を感じていることを幸せに置き換えるだけです。誰もが知る幸せとはそういうことです。

だから”こころの治癒”には
『幸せでいること』
『不幸を感じても心を幸せに癒やすせるチカラを持つこと』
で治すのです。

"こころの治癒"は『いつも気持ちのままに』居られる事にあるのです。

「鼓動を使う」

そして”こころの治癒”には鼓動を使うのです。鼓動は心に繋がる”もの”。その鼓動は速さや強さで心の状態を自分に伝えていたのです。もし、その鼓動を使い心を穏やかにできるなら、それは”心を使う”と同じことです。

それを『鼓動を感じる』だけで出来るのです。

試しに鼓動を感じてみましょう。
まずは胸に手を当てて”鼓動”を感じて見てください。それは誰もが出来る当たり前なことです。その当たり前は当たり前なように鼓動を使わず手を使っただけのことです。

それでは”鼓動”を使ってみましょう。
人のカラダには心臓があり脈打っていることは誰もが知ります。その心臓は脈打つ毎に血液をカラダの隅々まで送ってます。

ならば、カラダのどこでも手を触れず鼓動を感じれる事になります。「ドクっドクっ」っと感じれるだけで良いのです。最初は判りにくいかも知れませんが緊張したときドキドキ感じれる人なら、既にそれが出来ているのです。

もしも。今はそれが出来なくてもお茶でも飲んで一息ついて下さい。そしたらもう一度”鼓動”を感じて見るのも良いでしょう。焦る必要はなく。必ず出来る事だからゆっくりやってみれば良いのです。そして、鼓動を感じた時、自分が”鼓動を使う”証となるのです。

その証とは、”鼓動”を感じれたことで『自分を苦しめている悩みを一時(ひととき)でも忘れていた』と知るからです。

人は幸せに勝る”もの”はありません。苦しみを忘れさせる幸せは自分にも出来るのです。それが『鼓動のチカラ』と云います。

自身がその鼓動を”感じようとするか感じようとしないか”は自由です。鼓動を使うか使わないかも自分次第です。

「鼓動のチカラ」

”鼓動のチカラ”は苦しみを忘れさせるだけではないのです。それは”こころ”にある治癒力を引き出す一つに過ぎないからです。

自分たちには心がある。その心が”幸せ”を記憶する限り”こころの治癒力”は働かせれるのです。人は幸せに勝る”もの”がなく、誰もが”幸せ”を好んでます。それを当たり前すぎて、当たり前なことを忘れがちに感情に振り回されていたのです。

それをどのように”こころ”に感じさせ”幸せ”ですという治癒力を引き出すかが必要です。

人に心がある限りそれは判りきったこと。心あればその治癒力も自分の”もの”です。自分自身がそのチカラを引き出さなければ”こころの治癒”もないのです。

それには”幸せ”を感じられる事をするだけです。その幸せを感じるために心に繋がる鼓動を使えるのです。それは自由です。自分次第で出来ることです。

自分は”どうしたいのか”。”幸せになりたい”のです。それを忘れないように、この後すること、明日すること、今週末すること、来月すること、来年すること、いつかしたいことと”幸せ”を感じる予定(こと)をし続けるだけです。もし、その予定が出来なくて感情を沸かしそうになっても、それは予定であって未定なだけです。未定は次なる予定が立てれる権利があり、自由に決めれるのです。それも自分次第です。

それが一つでも多くのこころの穏やかになれば『いつもきもちのままに』が自分の”もの”となるのです。

何をしたいのか判らなければ、元々自分の中にある治癒力を使うのです。それはあなたの記憶の中にあり、幸せな記憶が幾つもあるはずです。人は予定を建てる時、幸せを感じれる予定に夢中になります。その記憶の中にある幸せな記憶をトレースするだけで治癒するのです。

”鼓動を使う”とは、心の中にある記憶に触れること。それが”こころの治癒力”を引き出し、自身の悩みから開放する術となるのです。

”鼓動のチカラ”とはそういう”もの”です。そのチカラの源が心がある限り、あなたのどこかにあるるのです。”こころの治癒”とは自分次第なのです。

「番外編 以前の話」
以前、薬を一日一日引っ掻き削る話をしました。一日一日その引っ掻く回数を増やすと薬は元の量よりも減ってしまいます。当たり前なことです。それを服用することで何が変わるのか。何も変わらないのです。

薬とは、時に”服用するという安心感”を心に植え付ける感情を持たしもします。その服用するという安心感に慣れてしまうと、服用しない=不安にさせてしまうのです。それでは心身に知らず知らずに害となり薬の意味を失います。

元々自身のカラダにある”こころ”というクスリには、どれだけ服用し(つかっ)ても害はないのです。それは”病は気から”のように漢方の如く自然にある”もの”だからです。

それはカラダに一番優しいクスリと解るのです。ただ、服用の仕方を間違っていただけです。感情でその心を使えば病を悪化させてしまうのです。”こころ”とは自身が持つ万能のクスリです。心のカタチとはそれを試す話です。


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