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陣中に生きる—34

砲撃の略図
行軍地図・現在地、呉淞(ウースン)

十月二十七日 晴

― 敵機夜襲 ―

零時、銀砂利をまいたような星月夜である。
はるか左前方の、ぼんやりと明るいところが上海であろうか。
今晩はあたたかい関係か、めずらしく靄がない。
山のないこのあたりでは、部落々々をつつむ森や木立の変化が、海のような平原の単調さを、わずかに破っているにすぎない。

真黒い木立が、妖魔のように並んでいる。
走っているもの、背のびしているもの、うずくまっているもの等々千姿万態である。

前線では、激しくわたり合っていた。
ダムダム弾のさく裂音が、絹布を引裂くように、遠くまでこだましていく。
もの凄く、不気味な晩である。


探照灯が、空高く動きはじめた。四方から集った光芒が、一塊の白雲あたりに、敵機を求めている。
かすかな爆音が聞えてきた。
ダーン、ダダーンと、高射砲がほえ出す。

その弾丸が白雲の下あたりで、さかんにさく裂する。
森の上には、花火のような火の玉が、スーィスーィと上っている。
しばらくの間、凄惨な光景が展開された。
かと思うと、たちまちシーンと、もとの静けさに返った。
敵機はなんらなすところなく、逃げ去ったのである。


ぼんやりとたたずむ。
馬車の音がカラコロカラコロと、闇の彼方から聞えてくる。
不気味さのただよう静けさだ。

ふと北の空を仰いでみる。
あのなつかしい北斗七星はどこか。
片雲にさえぎられてついに見当たらない。

その時、田んぼ一面にすだいている、虫の音にふと気がつく。
銃砲声にばかり、神経をとがらしていたのだった。
今、かすかな虫の音に聞き入っている。
急に、別世界にきたようである。


五時三十五分。
目をさます。
幕舎の軒のあたりに、白いほころびのようなものが幾つか見える。
よく見ると、すき間もれの月光である。

出て見る。
銀の櫛のような月が、中天にかかっていて動かない。
これまでとは違って、靄はほとんどない。
白いちぎれた雲が三つ四つ、西の空に浮いているだけだ。

三家村あたりは今晩も激戦で、銃砲声は幾つかのこだまのように、ほんのりと明かるい夜空に交錯している。

遠方からは、大太鼓のような砲声が、連続的に聞える。
幕舎に入って寝ようとすると、流弾がパシッ。
入口近くの、木立の幹をぶち抜く。


昨夜は、しつこく空襲があったらしい。
しかし、この辺はその心配はなかったし、砲弾もほとんど来なかった。
その上暖かかったので、グッスリとやすめた。

朝は流弾が多いので、食事も壕の中ですました。
おかずは塩だけ。
ご飯はあったので、せめてもと思ってうんと食べた。
空腹感は消えた。
それだけでもましなことと、思わなければならなかった。


食後、観測所から次のような電話。
「今日は射撃の予定はないから壕の中で休養しておれ。なお砲車・小銃の手入れをしておけ」

今日は思い切り撃てると思っていたので、期待がはずれていささかガッカリ。
壕の中でスケッチを試みる。
うまくいかない。

そこで今度は、日記書きをはじめる。
そこへ阿部少尉殿が来られたので、出て行ってご健在を祝し、前線の情況を聞く。
また、壕に入って書く。

ちょっと湿気をふくんだ天気で、六月頃のように暑苦しい。


十二時三十分。
思いがけなく射撃命令がでた。
その射撃がどうもはかばかしくない。

<大したことはないのかな>と思っていると、十三時十分頃から、思い出したように猛烈になってきた。
友軍歩兵の敵前渡河を、支援しているらしかった。

機関銃の音が、滝かと思うほどである。
射撃中に、次のような情況報告があった。

「友軍歩兵が今クリークの渡河を敢行しようとしているから、しっかりやれ!」
「友軍は果敢な渡河前進を決行している」
「敵は算を乱して退却している。今の射撃は効果甚大だった」
「敵は狼狽退却している」
等々、熱狂したアナウンサーのように、射撃号令の合間合間に、感激をそのままのせて報告してくる。

友軍歩兵の凄絶な突撃の光景が、まざまざと見えるようで胸がわななく。
その後の射撃も、全部有効だったとさかんにほめてくる。
観測所も大分うれしかったらしい。


この射撃は、菅家・窪両分隊長が段列に、中隊長殿のお見舞いに行ってる間のことであった。
したがって第一・第四砲車は、存分の働きができなかったらしい。
間もなく二人は帰ってきた。

その話によると、
「外交交渉が有利に進展しているからそう長くもあるまい」
ということであった。
そのほか、中隊長殿・棚橋軍曹よりの伝言、俸給の件等についての連絡もあった。


食糧は小野寺上等兵と渡辺が持ってきてくれた。
今日は、豚肉に味噌である。
いずれも少々だが、昨日よりはいくらかましだ。

タオル六本、チリ紙若干の加給品もあった。
その上思いがけなく、江尻少尉殿から個人的に、角砂糖三箇を頂いた。
糖分など近頃思いもよらぬものなので、そのおいしく有りがたかったこと。
まるで妙薬のように、栄養不足がなおって、元気が回復するようである。

夕食には豚汁だったが、文字通り汁だけで、肉は全部、明朝食のお楽しみだった。


夕食後は食事場で、薄明を惜しみながら日記書きをする。
そこへ第四分隊から、バリカンを持ってきて貸してくれた。
そこでさっそく、川崎にやってもらうことにする。

まったくの刈りっ放しだ。
おびただしいフケもそのままである。
それでも、すっかりいい気持になった。

やがて、夜のとばりが落ちかける。
ついには、懐中電灯をピカピカさせながら刈ったのだから、照準点(残った毛のこと)が、たくさん残っていたことだろう。

つぎには川崎が木戸に、やってもらっていた。
お粗末なバリカンの上に、新米の理髪師ときているので、まるでけんか腰の大さわぎだ。
たまりかねた川崎は、自分で一人でやっていた。


その頃、西空に目をやってみる。
さっきまでの真赤な夕日も、いつの間にかとっぷりと沈んでいた。
金モールのような細長く美しい雲が数条、低くたなびいていた。
めずらしい趣向の、しかも平和なながめである。
見入っていると、戦争の罪悪と損失とを、ひとしお強く感じられた。

目を移して上海の方を見る。
昨日から大火災の煙が、まるで雨雲のように、東から北の空にかけてモウモウと立ちこめていた。

そして、夕闇がせまるにつれて、そこだけが取残されて、暮れなずむ夕焼空のように見えた。
しかしその感じは、夕焼空とはまるで違って、もの凄い光景である。
どうやら右へ左へと、延焼しているらしい。

この東西二方面を眺めていると、さながら平和と戦争の比較対照を、見せつけられた感じだった。


いっぷくして静かに休む。
なかなか寝つけない。
二十二時十五分、ふと目をさます。

前線は大へんな激戦で、小銃・機関銃の音が滝の音のようである。
午後の戦闘で退散した敵どもが、督戦隊にしたたか尻をたたかれ、今晩あたりやってくるものと、予測していた通りだった。

早く掩護射撃をして、歩兵を励ましてやらねばと、イライラしながら待機する。
しかし敵は例によって、一時間ほどで受取仕事 ― 弾薬消耗がすんだらしく、急に静まりかえった。
そこでまたも闇の中に、窮屈ながら横になる。

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