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学び続ける意義に関して。エピクテトス『人生談義』との対話。

文字数:約3,950

もしわれわれが意欲に関する論文を読むのが、意欲について何がいわれているのかを見るためでなくして、われわれが善く意欲するためであるならば、また欲望や忌避に関する論文を、欲して失敗しないように、忌避して陥ることのないように、また義務に関する論文を、事情を憶えておいて、非合理的であったり、また義務に反してなしたりすることのないようにであるならば、われわれは読書を妨げられても、腹を立てず、それに対応した行動をなすことで満足し、そしてわれわれが今まで数えるのに慣れていた「今日私は何行読んで、何行書いた」ということを数えないで、むしろ「今日私は哲学者たちから教わったように意欲をした、そして欲望せず、ただ意志の左右し得るものに対してのみ忌避し、誰某からおどしつけられず、誰某から狼狽させられず、忍耐と禁欲と協同とを練習した」ということを数えたことだろう、かくてわれわれは感謝すべきことに対し、神に感謝したことだろう。

エピクテートス『人生談義 (下)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

エピクテトスの言葉は、いずれをとってみても「ああ、そうだよなあ」と思うことばかりだ。彼の文章を追っていると、今まで私が不安に感じてきた事柄が、単なる思い込みにすぎなかったのだと気づかされる。それはよく晴れた気持ちのいい朝の、清々しい空気にとても似ている。肺にめいいっぱいの新鮮な風を送り込めば、昨日のいざこざや、今日もこれからやってくるであろういざこざに対して、それでも今日も精一杯生きていこうと、自然と希望が芽生えてくるように。

読書の一番の効用はこの点にあると私は思う。思い込みを思い込みだと思える心情には、ある一定のポイントにまで到達するには、賢人たちの知恵は欠かせない。私たちは一人で全てを思考することは、その人生の短さを考えれば不可能と言っても差し支えがないだろう。そこで、本というかけがえのない存在は、私たちの背中を押してくれる。巨人の肩の上から眺める美しい光景は、偉人たちの視点にほかならない。しかし、そこに私たち自身の考えをほんの少しでもよいから発見できれば、さらにこんな素晴らしいことはないのだと、私は信じてやまない。

哲学とは、よく言われるように、思い込みを破壊することだ。思い込みとは私たちの感情を支配する私たち自身のとある感情であり、要するにそれらは私たち自身のものである。たとえそれらが、各々の育ってきた外部の背景的要因によってゆっくりと醸成されてきた紋切り型のようなものであれ、いずれにせよ、それらは私たち自身のものであることには変わりがない。私たちは私たち自身でこれらの思い込みを作り出し、不安になり、怒り、苦しんでいるとも言えるだろう。

あるときには私たちの感情は、その要因を外部に押し付けようとするが、根本的要因は自らの生み出した感情にあるのだから、ほとんどの場合、外の世界に向かって、曇った己の感情を吐き出したところで、なんの解決にもなりやしない。たしかに、それらの感情を言葉にすることで、例えば気の知れた友人たちに告白をすることが不安の解消の糸口だと推奨されるように、私たちは私たち自身の感情を改めて感じることができ、第三者的に自らを把握するヒントが得られるという意味では、感情の告白は、問題解決の出発点となり得るだろう。

とはいえ、何れにしても、問題は自分自身にあり、他者にはないのである。したがって、私たちは今まで日常の生活が忙しすぎて見過ごされてきた私たち自身の感情を見つめ直し、その本質をあぶり出す必要がある。さらにそれらを邪魔者であるとして突き放すのではなく、抱きしめるように認める必要がある。感情は、一度、それらを感じ取ってあげられれば、大抵の場合にはもう悪さをしなくなる。だが、振り向いてあげなければ、いくらでも私たち自身に悪さをする。私たちの感情は私たちの感情に苛まれる。感情とは、なんとも陽気ないたずらっ子に似ていることだ。

私たちは私たちの感情を、たとえそれがどんなに醜いかたちのものであれ、愛さなければならない。なぜなら、それは自分自身にほかならないものなのだから。自分を愛さないで、どうして他者を愛することができるのか。そうやって勇気を振りしぼって自己把握に努めることで、やっとこさ、私たちは凛とした姿勢で生活でき、他者への思いやりの心情を自らに生成させられるのだと、私は信じてやまない。

では、そのためにはどうすればよいのだろう。まず、言えることは(もちろんこれは私がそう勝手に思っていることなので、その程度のニュアンスで聞いてほしいのだが)、私たちには自分自身に向き合う時間が圧倒的に足りていない。外部の忙事に私たちの心は影響を受けるが、その捉えかたそものもを切り取れば、それは外部的作用ではなく、根本的には内部的作用である。つまり、なんらかの外部的現象に対する私たちの心の反応は、あくまでもその印象を受け取った自らが自らのうちに生成するものであり、外部から植えつけられるものではない。

自分自身と向き合うということは(これも私自身の体感にすぎないが)、外部に対する自らの内部的反応を純粋に客観的に見つめ返す行為にほかならない。ああ、雨が降っている。だから、笑顔が消えるのではない。雨が降っているのは動かしようのないただの事実である。雨が降っているから、楽しみにしていた遠足が中止になるのはこの世の摂理にほかならない。たしかにその子たちはせっかくの休暇を雨に台無しにされたのだから、実際問題としてかわいそうではあるのだが、自然の見事な原理は、これを捻じ曲げない。

遠足を楽しみに待つ心情は、自らが生み出した感情以外のなにものでもない。それが削り取られたのだから、それは不運な悲しい出来事には違いがないが、では楽しさはもうどこにも無くなってしまったのだろうか。しかし、実際には、無くなったのは遠足という事実ではないか。厳然たるこの事実が事実として曲げられないのであれば、あとは捉え方の問題である。曲げられない事実に対して憤怒する人々は、まさか、雨に怒れば、彼らの気持ちは満たされるとでも思っているのだろうか。

ああ、雨が降っている。そこで、この笑顔が消えるのは、雨が根本的な要因ではない。本質的には、雨の反応を受け取った自分自身がその要因である。自分自身を観察するとは、このような心の反応に対する第三者的なる観察であると私は考える。私たちの顔から笑顔が消えた、その根本原理を観察するのだ。

すると、どうだろう。雨はなんにも悪くないことがはっきりと感じ取れる。それらは、ただの不運であると潔く諦めることができる。自分でコントロールできる事柄と自分ではコントロールできない事柄の区別を、いつでも的確に求めることができる。主観というものは、想像以上に重要なのだということがわかる。私たちは雨が降っても、笑顔でいよう。それは自らを騙すのではなく、自らの心の反応を認めた上で、自らを方向付けるためである。まさか、不幸になりたくてあえて選択して不幸になる人など、おそらくいないだろう。

だから、雨が降っているという事実は不幸でもなんでもない、ただの事実である。では何が不幸かといえば、それらの外部的に不遇な印象を心に植え付け、その傾向性に抵抗しようとせず、不幸を自らが意図して選択する心象の用い方を不幸と呼ぶのだ。多分、これは聞く人によってはとても冷たい言い方になってしまうのだろうと私も思う。だが、もし外部の印象に対する心の反応と、その反応に対するさらに踏み込んだ心の反応の動きが、自身の意志にその全てがかかっているのだとすれば、その全ての責任はやはり一人の個人以外には求められないだろう。

各個人の方向づけという意味では、私たちはきっと知識を詰め込んだだけでは到底足りないのだろう。同じく、ただ本を貪り読んだだけでも、むしろ逆効果になる可能性だって否定できない。偉人の言葉や歴史を知っているという事実は教養でもなんでもない、それらは彼らの言葉であり、彼らの歴史という事実以外のなにものでもない。もし世の中で語られる教養が、例えば美術館で絵画を鑑賞する際の耳障りな蘊蓄のことを示すのであれば、私はそれを全力で否定しよう。そんなものは教養でもなんでもなく、ただの各々の虚栄心の戯れであると。

エピクテトスの言葉は、見るべきものを然るべき仕方で見る重要性を教えてくれると思う。いつでもそのページをめくれば、ハッと気づかされるような、そんな不思議な魅力をもった本である。学び続けるという意味では、ゲーテがそうだったように、私たちはいつでも青春の人たりえるわけだ。

最初は、君が何人であるか気づかれないように練習し給え、しばらくは、私かに哲学してい給え。そうすると実が生ずるのだ。実るためには、種はしばらく埋め隠されていて、少しずつ成長するのでなくてはならない。決して君は君自身を哲学者といってもいけないし、また普通の人々の中で、原理について多く喋ってもいけない、むしろ原理に基づくことをなすがいい。例えば宴会では、どういうふうに食うべきかを話さないで、食うべきように食うがいい。もし何か原理について普通の人々の間に話が出たら、大方沈黙しているがいい。というのは君は消化しないものをすぐ吐き出す大きな危険があるからだ。そして人が君に、君は何も知らぬといっても、噛みつかなければ、その時こそ君は本物になり始めているのだと知るがいい。

エピクテートス『人生談義 (下)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

2022/09/17

PS:これは私の過去の記事の加筆であり、エピクテトスの『人生談義』を再読した備忘録的日記である。


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