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自惚れている自分から、脱出することについて。エピクテトス『人生談義』との対話。

文字数:約3,270

自慢とは虚栄心であり、自惚れていることです。

今、エピクテトスの人生談義を読んでいます。エピクテトスはおよそ2000年前のストア派の哲学者です。

人生談義には、人生の色々な原理が描かれているのですが、今回はその中から、自惚れについて考えてみたいと思います。

エピクテトスは自惚れについては、このように定義していました。

自惚れというのはこれ以上何も必要でないと思うことである。

エピクテートス『人生談義 (下)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

何かを学んだり取得した、もしくは私に備わっているという思い込みが自惚れという感情を呼び出して、人から褒められたい承認されたいという欲望が自慢に発展をしていきます。

思い込みと書いたのは、何かを完全に備えることはおそらく難しいと私は考えるからです。学ぶことに限界は無く、何かの資格や技術を取得したとして、それでも秀でた人は沢山存在します。身につけているもの、例えばお金なども同様のことが言えるかと思います。

また、そもそも自分のものではないものについては自惚れてはならないとエピクテトスは教えてくれます。

君のものでない長所は自慢せぬがいい。もし馬が自慢して「私は美しい」というならば、それはがまんできるだろう、だが君が自慢して「私は美しい馬を持っている」というならば、いいかね、君は馬の優良なことを自慢しているんだ。ところで君のものは何かね。心象の使用である。従って君が心象を使用して自然本性にかなっている時、その時こそ自慢するがいい。というのはその時は何か君の優良なものを自慢しているのだから。

エピクテートス『人生談義 (下)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

ストア派にとって自分のものではないものとは、自分の心以外を表します。つまり身につけている服やお金や容姿、さらには自分自身の身体についても自分のものではないのです。これはストア派の実践倫理に特徴的な思考であると言われています。

これらを考えると、自分のものではないものを自分のものであると思い込んだとき、人は自惚れるのだろうと思われます。

また、もしも自分が自惚れているとすれば、そこには人を見下したような情念が見え隠れしているものです。この部分に関してデカルトは情念論という著書の中で、高慢とは自分の欲望の奴隷であり、他人を低めるように努める情念である、と言っていました。

つまり自惚れとは悪であり、避けなければならない対象なのですが、回避の方法には私には(今のところ)2つの選択肢があるように思います。

1つ目は自惚れないだけの完全で高貴な精神力を備えること。これは理想形なのですが、だからこそ目指すべきなのですが、非常に難しい。人は簡単には変われないもので、昨日はできていたものが寝ると忘れてしまう。だからこのような人格者になるには一朝一夕では無理です。人生経験を積んでいくうちに自然とそこに集約していく、集約されていくべきことだと思います。つまり速攻性には欠けるのです。

2つ目は耐えることです。そもそも耐えることが難しいと言われそうですが、それでも私は耐えるしかないのです。これはいますぐにでも実行ができるはずです。自慢は口から出ますが、だから口を閉じていればいいのです。

人間であれば、自惚れという感情はどうしても湧いてくるものです。であれば、感情に対して理性で対抗するのではなく、理性で身体を制御して、自惚れが外部に漏れないようにしまい込むのです。相手がいなければ自慢はできませんが、言葉に出さなければ自惚れは隠されている状態になります。能ある鷹は爪を隠すと言われますが、能力がある(と思い込んでいる)人こそ爪を隠して耐えるべきなのです。

こうした忍耐力の修練が重なり人格者になるのかと思いますが、そうなるまでは心のうちは開示しないほうがいいのです。しかし、そのような段階になれば、そもそも自惚れない状態ですので、自慢をすることもなくなると思われますが、まだいまの私にはイメージができません。

自慢とは自惚れであり、何かに得意になり、相手に上から目線のアクションを起こすことですが、エピクテトスは人生談義の中で、哲学者を目指す青年に対してこう諭していました。

最初は、君が何人であるか気づかれないように練習し給え、しばらくは、私かに哲学してい給え。そうすると実が生ずるのだ。実るためには、種はしばらく埋め隠されていて、少しずつ成長するのでなくてはならない。決して君は君自身を哲学者といってもいけないし、また普通の人々の中で、原理について多く喋ってもいけない、むしろ原理に基づくことをなすがいい。例えば宴会では、どういうふうに食うべきかを話さないで、食うべきように食うがいい。もし何か原理について普通の人々の間に話が出たら、大方沈黙しているがいい。というのは君は消化しないものをすぐ吐き出す大きな危険があるからだ。そして人が君に、君は何も知らぬといっても、噛みつかなければ、その時こそ君は本物になり始めているのだと知るがいい。

エピクテートス『人生談義 (下)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

哲学とは、人間の原理を考えることだと思いますが、だからこそ説教じみています。少しイメージしただけでもわかりますが、道徳論は場をしらけさせます。尊敬する先生や上司が語る道徳はありがたく受け止めるべきなのですが、それ以外の普通の人の中で道徳が語られるとき、それを聞いている人はどう思うのでしょうか。

私なら吐き気がします。お前は何様であると、誰の口がそう言わせるのだと。要は身の程をわきまえていないことが原因なのです。

とはいえ、何か相手が知らないことを私は知っている(と思い込んでいる)という事実だけでも、人は簡単に自惚れます。自惚れは外に出たくてたまらないのです。しかし、外に出たがるものは思い込みであり勘違いであり、もしくは完全でないことがほとんどです。そうなれば、勝つのは必然、私ではなく、他者となるのです。

エピクテトスはこう言っていました。

それではなぜ彼らは諸君よりも強いのか。それは彼らがそれらくだらぬことでも、自分の考えとしてしゃべるが、諸君は気の聞いたことでも、口先だけでしゃべるからである。だから言葉に張り合いがなく死んでおり、そして諸君の勧告やここかしこで話されるような憐れな道徳論を聴いたものは、嘔吐を催すのだ。かくて普通の人たちが諸君に打ち勝つわけである。というのはどこでも強いのは自分の信念なので、信念は打勝ち難いからである。それで諸君の中にしっかりとした意見が確立して、安全にしてくれるある力を諸君が獲得するまでは、普通の人たちとの交わりは注意深くあれと諸君に忠告するわけなのだ。

エピクテートス『人生談義 (下)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

私が学んだことは誰のために学ぶのでしょうか。誰のために知るのでしょうか。まさか友人のためという人はいないと思います。自分のために学んでいる、知っている、努力をしているのであれば、自分の内部に向けて褒めればいいのだと思います。

それが外部に漏れるとき、不幸が訪れてしまうのです。なぜなら、それは完全ではないからですし、むしろ完全なものはないと言い切ってもいいからです。

だから自惚れに対して、いまの私にできることは、自惚れないことではなく、それが自分の外に漏れでないように耐えることなのです。自惚れとは感情であり欲望です。自分ではそうは思っていなくても、実はそう思っているとしたものです。

だからこそ、言葉に出してはいけないし、態度に表してもならないのです。よく「あの人は自惚れている」とか言ったりしますが、そもそも誰もが自惚れていると思った方が健康なのかもしれません。あなたも自惚れているし、私も自惚れているのです。

だからこそ、

沈黙は自分自身を警戒する人にとって最良の安全策である。虚栄心が喋らせない時、人は寡黙になる。

『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫) 翻訳 二宮フサ

自惚れない日が来るまでは。

2020/07/02


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