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鋼の精神力を獲得するためには、どうするべきか。また、自由になるためには。エピクテトス『人生談義』との対話。

文字数:約3,360

唐突で申し訳ございませんが、精神力とは何だろうかと私は最近、よく考えています。

私はサラリーマンとして、一般企業で働いていますが、精神力が試される機会はいくらでもあります。学生でもおんなじ事です。

たとえば、

苦手な人に対して、人はびくびくしてしまいます。人前で発表をするときに、人は緊張をして声は震えてしまいます。

何でもいいですが、誰かの話を集団で聞く機会があったとして、質疑応答ではなかなか手が上がらない気持ちはどこからくるのでしょうか。

電車の中で、老人や妊婦に席を譲る機会があったとして、なぜ多くの人は重たい腰をあげないのでしょうか。

苦手な上司、苦手な得意先、偉い人たちに話すべきことがあったとして、どうしてこんなにも私の身体が重たく、口の中は乾燥をして、やっとのことで言葉を振り絞るのでしょうか。

一方で、明らかに周りとは異質な鋼の精神力を持っている人がたまにいます。彼らは精神力が試されるシーンでも、不安を覚えないように私には感じられます。

精神力はビジネスでもスポーツでも、何でもそうなのですが、耳にタコができるくらい頻繁に言われることです。精神力が足りないよりはあったほうがいい、むしろ精神力はこの世界を生きていく上では、欠かせない能力だと私は思っています。

18世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、幸福とはあまり不幸ではないことであると定義し、世の中は困難で満ち溢れているという世界観を提示していました。

私もある程度はこのことに賛成をしています。むしろ、あえて私も生きることは困難と向き合うことであると言い切った方がいいのかもしれません。

では、困難と向き合ったときに、へこたれるか毅然と立ち向かうことができるか、このような精神力の違いはどこから生まれてくるのでしょうか。

人それぞれに人生の学び方があるかと思いますが、今回はこの問いかけに対して、エピクテトスに聞いてみようと思います。

エピクテトスは、およそ2000年前のストア派の哲学者ですが、詳細はWikipediaにお任せいたします。

エピクテトスは、自分の権内にあるものと自分の権内にないものとを取り違えるとき、人は不安になると語っていました。

権内と権内ではないとはどのようなことか、という説明については、エピクテトスから影響を受けた五賢帝最後の一人、哲学者のマルクス・アウレリウスの「自省録」(岩波文庫)の翻訳者である神谷美恵子の解説がわかりやすいです。

我々の自由になることとは我々の精神的機能、わけても意見をこしらえたり、判断をくだしたりする能力である。また徳および悪徳である。これに反し我々の外部にあるものは我々の力でどうにもならない。我々の肉体もその一つである。これ以外のものは全てどうでもいいこと(すなわち善でもなければ悪でも無い無差別なこと、あるいはすなわち徳と悪徳の間の中間部ともいう)である。例えば健康と疾病、富と貧、名誉と不名誉である。したがって我々は自分の意思でどうにもならぬことはこれをつぶやかずに忍び、どうでもいいことはこれを求めもせず避けもせず、どうにでもなることすなわち我々の内心の営みにのみ本拠を置いてそこに独立と自由と平安を確立すべきである。

マルクス・アウレリウス『自省録』(岩波文庫) 翻訳 神谷 美恵子

たとえば何か行動をしたとして、相手にどう思われるかという相手の感情、これは意志の外部にあるものであり、自分の権内にあるものではないのです。

相手にどう思われるかという不安、相手によく思われたいという欲望、これらは自分のものではないものを何か大きなものとして考えることによって生まれてくるのです。

最初に書いたいくつかの例に戻って考えてみます。

苦手な人に対してびくびくするとき、人は他人の言動やその人の感情が気になって仕方がないのです。

人前での発表で緊張をして声が震えるとき、他人から私はどう見えるのだろうかと、うまく話せているだろうかと、またはみんなに賞賛されたいのだと思っているのです。

誰かの話を集団で聞く機会で、質疑応答でなかなか手が上がらないとき、人は周りの目が気になって仕方がなく、自分の発言が周りにどう思われるかが気になるのです。

電車の中で、老人や妊婦に席を譲る機会で、多くの人が重たい腰をあげないのは、これも他人の目が気になっているからです。

苦手な上司、苦手な得意先、偉い人たちに話しかける機会で、縮こまりうまく話せないばかりか臆病になってしまうとき、その人は私のことをどう思うのだろう、私のことを気に入ってもらえるだろうかと思っているのです。

自分の権内にないものに価値があると人が思い込んだとき、その人の精神は機能不全を起こして、理性の代わりに感情がその人の支配権を握るのです。なぜなら理性は自分の権内にあるものであり、自分の権内にないものの中に価値を見いだすことは、ストア派的な考え方に基づけば、それは理性的な判断にはなり得ないからです。

エピクテトスは、このように言い聞かせてくれました。

何に対して大胆であり、何に対して細心であるべきかと、つまり意志外のものに対しては大胆であり、意志的なものに対しては細心であるようにこれらを修行し、これらを身につけて置くがいい。君のものと他人のものとをいつも記憶して置くならば、君は混乱させられることがないだろう。

エピクテートス『人生談義 (上)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

しかし、多くの人は大胆であるべきことと細心であるべきこととを正反対に考えているとエピクテトスは言っています。

われわれはどこを恐れているのか。意志外にものに対してである。また何に置いてわれわれは、何事も怖いことがないかのように大胆にふるまっているか。それは意志的なものにおいてである。そういうわけでわれわれは、最も大切なことで間違っている人々のように、本来の大胆を、向こう見ずや、自暴自棄や、厚顔や、破廉恥となし、本来の細心とつつしみとを恐怖や不安に満ちた臆病や卑屈となすのである。

エピクテートス『人生談義 (上)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

他人について不安になるとき、自分の不安だという気持ちに不安になるのです。不安とは悪いことであり、したがってこれには細心の注意を払って打ち克たなければいけないことです。また、不安という感情は悪いことであり、したがってこれは自分の権内にあることです。

つまり、不安には細心であるべきで、他人については大胆であるべきだということです。さらに言えば、人は細心であるからこそ、大胆になれるということです。もっと言えば、善悪とそのどちらでもないものの判断を取り違えないということです。

私はここに鋼の精神力のヒントが隠されているように思いました。

つまり自分にとっての善には進んで取り掛かり、悪は細心で取り除け、そのどちらでもない外部のことには大胆になれる人が鋼の精神力を持つのだと私は思います。

またこのような精神力を持っている人は、利己的にはなり得ない高邁さも持っています。なぜなら外部のことはどうでもよいことですが、その判断は自分の権内のことであり、すなわち善悪の判断は極めて重要な意味を持つからです。

これは自分を信じるということではないでしょうか。

質疑応答で手を挙げて発言をすることが恥ずかしいのではなく、質問をしないことによって知識を得る機会を損失することを恥ずかしいというのです。

体の弱い人に席を譲ることが恥ずかしいのではなく、敬う気持ちを行為に移せないことを恥だと呼ぶのです。

プレゼンをしてみんなが聞いていることに緊張するのではなく、自分が準備してきた成果を発揮できるかどうかと武者震いすることを緊張というのです。

苦手な人や権力に対して縮こまり臆病になり、自分が正しいと思うことを思う通りにやれない人は奴隷と呼ばれるのです。

鋼の精神力を持つ人は、自由なのです。だから強いのです。

さて、自由な世界にあって自由に生きようとしない人のことを奴隷と呼ばずに、一体なんと呼べばよいのでしょうか。

自由という大気の中にあって多くを達成する能力の欠けている人々は権力を渇望する。

エリック・ホッファー『波止場日記』(みすず書房) 翻訳 田中淳

2020/06/27


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