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何者かになろうとしている人が不安になる理由について。エピクテトス『人生談義』との対話。

文字数:約2,420

時々、このような感情に襲われて不安になったり、焦りを覚えることはありませんでしょうか。

「私とは何者なのだろうか。」

就活生時代は特に「何者」を見つめざるを得ないですし、私も大学生や就活生のときには、この感情に苦しめられました。社会人になっても変わらず、ふとした瞬間(特にそれは何もやることがない倦怠感から、もしくは何をすればよいのかわからない焦燥感から)にそう感じるのです。

やりたいことをやっている(ように私には見える)人を見たときに、一方で私はどうかと振り返る。何がしたいのだろうかと自問自答の繰り返しからは、答えは一向に出てきやしない。

キラキラと輝いている(ように私には見える)人を見たときに、かたや私はそう見えるだろうかと己を見つめる。あの人はみんなからすごいと言われているけど、それに比べて私は何を持っているのだろうか。

何にもないじゃないか、と私自身への憤りが生まれてくるのがわかる。不安と焦り、嫉妬と自己嫌悪、今日も何もしなかったと無駄に一日がすぎていく感覚。

私には、「自分は何者だろうか。」と私が私に問いかけ不安になるとき、それは自分に聞いているにも関わらず、目線は他人に向いているような気がしてなりません。なぜなら、この時のこの問いの本質は、「(他人にとっての)自分は何者だろうか。」だと思うからです。

自己を見つめることには意味がありますが、本当に自己を見つめることができる人は限られた人々のように感じてなりません。普通の人は、自己を見つめることには耐えられないからです。自己を見つめるより、他人を見つめることの方が簡単なのです。

目線が違うのです。「他人にとっての自分は何者だろうか」と私が私に質問するとき、それに答えはないと思い知るのです。それは何者でもないからです。何者でもない何かになろうとするのは、絶望的な試みと言わずなんと呼べばよいのでしょうか。

こんな意味のない自問自答に、一日を無駄にはされたくないのです。悪しき感情どもを心から追い出してやりたいのです。

では、どうすればよいのでしょうか。

私は、哲学者に悩みを相談することは、数ある選択肢の中でも、とびっきり効果的なものだと思っています。

この質問には、私なら第一にエピクテトスに聞きます。

エピクテトスは、今から2000年程度前のストア派の哲学者ですが、詳しくはWikipediaにお任せします。

例えば、エピクテトスはこのように話していました。

ところですべての人は、誰であろうと、それぞれのものを自分がそれについて考えるように扱わざるを得ないのであるから、かの誠実に、つつしみ深く、そして心象を安全に用いるように生まれていると思っているわずかな人々は、自分たちについては、つまらないとも考えなければ、賤しいとも考えていない、けれども、多くの人はそれと反対である。「一体私は何なのか、みじめな小さい人間だ」、しかも「私の憐れむべき肉塊」と彼らはいう。

エピクテートス『人生談義 (上)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

心象を安全に使うとはどういう意味かと言えば、エピクテトスは理性に従うことと語っていました。

正しく理性を使うことができれば、善と悪とそのどちらでもないどうでもよいことを判別できるようになるようです。

また正しく理性を使うために、ストア派の哲学ではこのような考え方を提唱しています。

自己の権内にあるものとないものとをはっきりと区別すること。

つまり善と悪というのは、あくまで自己の権内、つまり自己の内心にあり、善と悪の正しい判別のためには、教養や知識、それから精神力が必要だとエピクテトスは説いているのです。

エピクテトスは、こう言いました。

なぜ君は、他人のものについて不安を抱いているのか。

エピクテートス『人生談義 (上)』(岩波文庫) 訳者 鹿野治助

他人に評価されたいし誰かにすごいと言われたいからという理由で、私はそんな何者かになろうとして悩んでいるのであれば、それは他人のものに思い悩んでいることになります。

なぜなら相手がどう思うのかと相手が感じている感情は、私のものではなく、他人のものにほかならないからです。

それでも相手の自分に対する感情が気になりますか?相手の自分に対する見え方が気になりますか?

しかし気になって確かめたところで、何かが変わりますか?

それとも、相手の感情や相手の見え方を変えたいのですか?

一体、なんのために。

つまり相手を支配したいということですか?

人はそれを傲慢と呼んでいるのです。

あえて、相手の感情や相手の見え方は変えられないと言い切った方がいいのかもしれません。しかし自分の感情はコントロールすることができます。

「私は何者だろうか」という問いかけではなく、「私は正しいだろうか」という問いかけに目線を変えることは、進歩と呼べるのではないでしょうか。なぜなら前者には答えはなく、後者には答えがある(かもしれない)からです。

何が人生の正解かは、果てしなく難しい問題なのですが、少なくとも正しくあろうと努力することはできないでしょうか。

人生の主導権を、なぜ他人に握らせようとするのでしょうか?自分の人生は自分以外の誰が責任を取ることができるのでしょうか?

だから私は決意をしなければいけないのです。人生の全責任は自分にあると言い切らなければならないのです。

それらの意味で自己を見つめることは、「他人にとっての私は何者なのだろうか」という問いかけの何百倍も難しく、何百倍も価値のあることだと私は思います。

「私とは何者なのだろうか。」という質問に不安を覚えるのは、軟弱な精神力と言わず、なんと呼べばよいのでしょうか。

20世紀フランスの哲学者のアランは、幸福とはすべて、意志と自己克服による、と話していました。

私は他人を見つめるのではなく、自分を見つめなければならないのです。なぜなら、それは前進することを意味しているからです。

2020/06/27


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