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人生を変えた富士登山

子どもの頃は毎年行っていた山に、いつから行かなくなったのだろうか。

確か、山から離れたのは、中学生の頃だったと記憶している。

別に両親に反抗していた訳ではないが、山に誘われても面倒くさくて行く気がしなくなってしまった。

それよりも、友だちとサッカーやゲームをすること、そして女の子と恋愛することに夢中になっていた。

それまで大好きだった自然より、人間関係に興味が湧き、気が付けば自然から遠ざかっていた。

そんな私が再び山と向き合うことになったのが、富士山である。


富士山は、誰もが知っている日本一の高峰だ。

標高は3,776mで、独立峰の成層火山。

その優美で整った形から、日本の象徴として世界でも広く知られており、2013年に世界自然遺産にも登録された。

私自身、富士登山には全く興味がなかったものの、2007年、27歳の時にふとしたきっかけで登ることになった。


この年の4月、祖母を亡くした。

私にとって唯一の祖父母であり、大好きだった祖母。

厳しくも優しい人だった。

しかし、ある時から痴呆になってしまった。

アルツハイマー患者を持つ家庭の苦悩は想像以上で、同居していた父母を散々苦しめた。

私の前では気丈に振舞っていた祖母だったが、晩年は私の前でも、訳のわからない話をするようになってしまい、しまいには自分の娘である母のこともよく解っていないようだった。

夜になると家を抜け出し夜道を徘徊。

見つけると「福岡に帰る!」と駄々をこねた。

祖母の故郷、福岡に帰る場所はもうなかったのだけど。


私が祖母の症状を確信した出来事がある。

それは、大学の夏休みに実家に帰省した際、祖母がおもむろに財布からお金を出し「はい、お小遣い」とくれた。

学生貧乏な私はなんのためらいもなく喜んで受け取ったのだが、祖母がそんな私を見て自分の部屋へ戻ったと思ったら、また財布を持って現れたのだ。

そして、つい今しがたここで起こった出来事を反芻するかのように

「はい、お小遣い」とお金を僕に差し出した。

さすがに時間の感覚が短すぎて、デジャヴとも思うことが出来なかった。

心のどこかでは、まだそんなにボケていないと勝手に思っていた私だったが、ここまでボケてしまった祖母を目の当たりにし、本当にショックだった。

「ありがとう」とお金を受け取り、後でこっそり祖母の財布にお金を戻した。

空しく響く、悲しい「ありがとう」だった。


そんな祖母だったが、いよいよ自宅での介護が厳しくなり、施設に移った矢先、あっけなく逝ってしまった。

母は生前祖母から「いつか富士山に登りたい」と聞いていたらしく、祖母の供養のために登りたいと思ったようだ。

しかし、父は心臓の手術をしており、富士登山の付添は厳しい。

そこで私に富士登山の話が舞い込んできた。

興味はなかったが、当時大学院生で時間だけはたっぷりあった私は、祖母の供養のためと、「一生に一度は富士登山」というキャッチフレーズに誘われ、母のお供をすることにした。


実に中学生以来の本格的な山登り。

富士山に登るとはいえ、全く知識がない。

幼い頃の記憶を呼び起こし、山に必要なものを考えてみる・・・。

駄目だ、全然思い浮かばない。

そこでネットで検索。

するとそこには予想以上に厳しい書き込みが。

富士登山をなめていた自分を反省。

事前に検索しておいてよかった。

とりあえず、雨合羽とトレッキングポールっぽいポールをホームセンターで購入。

ついでに高山病対策で酸素缶も。

ウェアは、私服のアウトドアウェアの中から使えそうなもので、それっぽいものをチョイス。

今考えたらとても恥ずかしい装備だが、そのときの私はこれでひとまず安心した。


8月上旬、母と東京で合流し、新宿から早朝のバスで富士山五合目へ。

ガイドが付くツアーで、一番ポピュラーな吉田口からの登山となった。

当日台風接近中とのことで、天候が心配だったが、五合目はまずまずの天気。


到着してまず驚いたのが、人の多さ。

「うわー、こんなに人いるんだ。」

母と2人、思わず息を飲む。

東京は勿論人が多かったけれど、まさかこんな所で喧噪と奔流に巻き込まれるとは思わなかった。

あっけにとられている私の眼に飛び込んできた次の衝撃な光景が。

押し寄せる、おじいさん、おばあさんの大群。

そして、みな装備がしっかりしている。

それを見て、また自分の持ってきた一式が恥ずかしくなってしまった。

中にはヨボヨボのおじいさんも紛れ込んでいて、あのキャッチフレーズに誘われてきたなとニヤリ。

そんなカオスな五合目から、私たちの登山がはじまった。


登山の行程自体は実に単調で、終始前の人のお尻を見て歩くスタイル。

大人数のツアー登山なので、ガイドの歩くスピードも遅い。

体力を持て余しながら、つまらない登りが続いた。

あまりにも単調なので、途中、頭は痛くないけれど、とりあえず買ってみた酸素缶を吸う。

しかし、酸素を吸えているのか分からず。

なんだこれ、意味あるのか。

そんな緩い道中、気になるのは母のコンディション。

そんな私の心配をよそに、母は体調が良いみたいで快調に高度を上げる。


しだいに視界が開けてくると、それまで上空にあると思っていた雲が、いつの間にか足元に。

その時、私は今まで感じたことのない高揚感を味わっていた。

そして、長い間眠りについていた山の感覚が、

「はっ...!」

とその瞬間に目を覚ました気がした。

表現力が乏しいようだが、本当に「はっ!」だった。

それと同時に、山の景色は一変した。

探し求めていた感覚はこれだ、と直感した。


宿泊する8.5合目の山小屋に着いた頃、心配していた台風が富士山に近づいており、夕食を食べていると遂に雨が降り出した。

興味本位で風と雨が叩きつける外へ出てみると、幾つかのヘッドランプの明かりが頂上へと続いている。

「こんな天気でも登るのかよ」

驚きながら、雨風の暗闇に光る健脚の列は、死者の魂があの世へと旅立つようにも見え、妙に美しく、そして悲しかった。


ツアーガイドの判断で、翌日の登頂は無論中止となり、私たちの登頂は叶わなかった。

それでも、私は充実した気持ちだった。

こんなに気持ちが満たされる遊びを私は、ずっと忘れていたのだ。

しかも、子どもの頃とは少し違う感覚で山と向き合えた。

これまで全く山と縁を切っていた自分を心底呪った。

持て余した時間を、すべて山に使っていればと後悔した。


この山行で、改めて登山の基本的な知識を得ることができた。

ガイドの歩き方を見よう見まねで覚えることで、これまでとは違った山の歩き方を知った。

すべてが新鮮で、すべてが驚きだった。

結果、あんなに興味のなかった富士登山が今後の人生を大きく変えることになった。


翌朝、鉛色の雲が渦巻く隙間から、時折見えるご来光に手を合わせ、母と2人で祖母を想った。

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