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宵の劇薬

 頬に冷たさを感じて、確かめる指先が湿った。いつの間にか寝てしまっていた、そして、目が覚めてしまった。
 夢を、見ていた。開いた目に、瞼の裏と同じ暗闇が映る。少し前まで、この目に映っていたはずの光景は、もうどこを探しても見当たらない。狭いワンルームに圧縮された闇に締め付けられるような、そんな微かな痺れが、脳から手足の先へと伝っていく。
 今頃になってもまだ、あんな夢を見てしまう。そしてその夢を、あまりに鮮やかに、完璧に反芻できてしまう。あの声、あの笑顔、そして私に向けられることのなかった、あの言葉。それらを思い浮かべると、手足に散らばっていた痺れは胸に集まって、鼓動の度にズキズキと鳴った。


 あの人は私より二つ年上、薄い縁の眼鏡がよく似合う女性で、外見的にも、その趣味趣向からも、まさに文学少女といった人だった。一方で天真爛漫な性格で、その交友関係はある特定のグループに収まることはなかった。彼女がすでに持っている深い知識と、それをさらに広げようとする貪欲な好奇心が、いとも容易く人の心の壁を乗り越え砕くのだ。たくさんの人間を飲み込んできたであろうその表情豊かにくるくると回る渦のような瞳に、当時大学生だった私はすぐに飲まれてしまった。
 いや、それだけではなかった。彼女は私の憧れそのものだった。

 私は当時書店でアルバイトをしている、経済学部の学生だった。相次ぐ不況により定職につけない人が大量に生み出されていた暗い時代、幼少期の世相といえばそんな状況で、私たちの鼻先には常に学歴や大手企業と書かれた札が吊るされ鞭打たれていた。私たちの多くは皆同じ道を押し合い圧し合い脇目も振らずに進んだ。
 とはいえ、私は余所見勝ちな若者だった。物心ついた頃から漂っていた陰鬱な空気、そこから連れ出してくれる本の世界にずっと気をとられながら走っていた。そんな駄馬でも打たれればそれなりに走るもので、しかし下手に走れたことがよくなかった。従順な者に手綱のつくのは世の常だ。そして操られるがままの人間に幸福の訪れないことも、数々の歴史が証明している。

 彼女はまさにそんな私とは正反対だった。望むままにあらゆる文化を貪る。そのひたむきさがもたらした深く広い知識を、そこから生まれる豊富なウィットで飾ってどんどん放つ。書店の中を歩く彼女は、文化の精霊というべき神秘性を纏っていた。彼女と出会う頃には景気は好転していたが、とはいえそれまで確かに世に覆いかぶさっていた閉塞など一度も感じたことがないようにのびやかに、軽やかに笑ってみせるのだ。
 文化に愛された彼女は、同じだけの愛を文化にのみ注いでいた。そしてその愛に文化は十分に応えた。私が彼女と出会ったのは、その天稟を思うままに発揮し、その担い手となるべく迷いなく踏み込んでいく、まさにそんな時のことだった。
 私の方へは、運命の神の憐憫が注がれたものらしい。どうせ行き詰まるならとはじめた書店のアルバイト、その配属先に彼女はいた。踵を浮かせながら高い書棚の上部に伸ばすその指の白さ、耳に流れてゆく前髪、脇に抱えた文芸書。薄縁の眼鏡の奥の瞳がこちらを向く。いつの間に物語の中に迷い込んでしまったのか、そう思わずにはいられなかった。
 彼女も学生である以上、現実と物語の融合がほんの一時のものでしかないことは、その時点でわかっていた。一年が経った頃、大学院へと進学することを知った。文系の大学院は就職に有利に働かない、そんな評判など知らないかのように、ごく当たり前に選び取っていく姿、そこに私と彼女の間の大きな隔たりを見た。

 そんなある時、休業日を利用して書店の打ち上げがあった。両脇に座っていた上司が帰宅し、窮屈さから解放され休憩をしていた時だ。空いた隣の席に腰掛ける人があった。梅酒の入ったグラスを持って現れたのは彼女だった。アルコールで頬を赤く染める姿はこれまでの打ち上げでも何度か見かけていたが、普段とはまた違った光を宿したこの瞳は初めて見た。
 こちらを見るでもなく、静かに話をはじめる。最近話題の本のこと、前に薦めてもらった小説のこと、同じ職場の人のエピソード、そしてこれからのことを少し。普段より少し濃い密度で、近いトーンで会話をする。
 「私、あと半年でここを辞めるんです」
 大学院でやる予定の研究の話の終わりにポツリとこぼす。その一言で、ハイボールと梅酒が作り出した芳しい靄が引いていくのを感じる。そう、彼女はそこへ行ける人なのだ。そのための才と、意志を備えている。
 私は曖昧に応援の言葉をかけた。彼女がこちらを見るのがわかったが、私は梅酒の中の氷が傾くのを見つめるしかなかった。私は駄馬だ。手綱などないというのに、結局どこにも行けはしなかったのだ。


 真っ暗なワンルームの中、ベッド脇のボードから水の入ったペットボトルに手を伸ばす。空振る度、頭に二日酔いの前兆の鈍い痛みが走る。頭と胸に走る痛みに、これはもう眠れないだろうという諦めがよぎる。

 職場の親しい一部の人間が集まった酒席があった。家族を持つ者も多い席の常として、やはり家庭の運営の難しさが話題を支配した。そしてそのうちいつものように、いつまでも交際相手すら持たずにいる私が槍玉にあがった。まだ作らないのか、寂しくはないのか、まさか女性に興味がないのか。飽きずに何度も繰り返すこの流れに、アルコールを摂取しすぎていたこの日の私は耐えかねた。それならと、彼女のことを話してしまった。今でも夢に見るのだと。
 それを聞いた同僚の反応といえば、ただ冗談だろう、とだけ言ってしきりに笑った。いいよなあお前は、家庭がないから気楽な冗談が言えて。そう、冗談だよ、と笑って後はひたすらハイボールをあおっていた。

 冗談じゃない。くだらない質問も、下卑たあの笑いも、私の言ったことも全て。大げさにベッドへ倒れこみ、布団にくるまってうつ伏せになる。
 例えば、誰かこの感情をプラトニックと呼んでくれるだろうか。その可能性が限りなく低いことは、この間の酒席で思い知らされたのに、性懲りもなくそんなことを思う。
 アルコールがかき乱した脳をまとまりのない思考が渦巻いていく。プラトニックとプラスチックって似ているな。いや、語呂だけか、と独り苦笑い。でも、この感情とは少し似ている。燃やしてしまうことの出来ない、燃えないゴミ。ああでも、リサイクルは出来ない。

 この愛のために滅んでしまえる自分であれば良かった。手綱を千切って走れる自分であれば、こんな思いはしなかったのだろうか。劇薬のような感情が身体をかけめぐっていく。
 くぐもった声が枕に染み込む。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。