気象学史1:天気予報の誕生
前回、Googleが気象予報を目的とした新しいAIを開発した話を取り上げました。
その過程で(昔はむしろ嫌いだった)気象学そのものに興味をもったので、簡単にその歴史を書いてみます。
人類初の気象予報(天気予報と同じ)は1861年に英国ロンドンのタイムズ紙が発表しました。
イギリスで誕生した背景としては下記の2つが遠因にあったそうです。
・クリミア戦争(1853-1856)で英仏艦隊が突然の暴風で壊滅した事件(1854年に英国気象庁設立)
・電報の発明(1837年)で遠方への情報伝達が可能に
戦争・技術革新が科学を進歩させる典型的な事例ですね。
その英国気象庁設立に関わったのがフランシス・ボーフォートです。
ボーフォートが抜擢したのがロバート・フィッツロイ海軍中将(1805-1865)で、彼主導の元、英国が史上初の科学的な天気予報に取り組むことになります。
因みにフィッツロイは、あのダーウィンが進化論を思いつくきっかけとなったビーグル号で艦長だった人でもあります。もっと言えば、元々フィッツロイが博物学者の同乗を要望し、ボーフォートがダーウィンを推薦したという経緯です。ただ、皮肉なことにフィッツロイは敬虔なキリスト教信徒で、ダーウィンが乗船後に提唱した進化論を聞いて裏切られたと感じたそうです。
こちらの話も興味深いですが天気予報の歴史に戻ります。いずれにせよ、フィッツロイは豊富な航海体験から気象を予測するノウハウを得て、それを天気予報として各メディアに情報提供するようになりました。
仕方ないと思いますが、当時の天気予報は全く当たらず(詳細な方法までは分かりませんが、過去の天気図だけでなく、港に新たに気圧計を設けて測定はしていたよう)、英国科学を失墜しかねないとして、フィッツロイの死後(60歳の時に自殺)に天気予報は中止となってしまいます。
その挫折を虎視眈々と狙っていたのが米国の気象学者のクリーブランド・アッベ(1838-1916)です。
アッベは初期条件の知識が不十分なことが英国の失敗ととらえていました。
当時米国では内陸部に気象観測網がめぐらされており、直近の天候について警告する仕組みは出来上がっていました。
それだけでなく、アッベは天文学者でもありました。近世まで長い間、宇宙の天文現象と地上の気象は昔は影響があるのでは?と考えられており、アッベに限らず天文学者の接点は珍しくありません。
その天文学者としてのスタンスとして、過去のデータ(経験含む)だけでなく、物理学の理論を初めて導入することに挑みます。
これが、物理法則のシミュレーションで天気を予想するはじめの一歩となります。
次回はその中身から書いていきたいと思います。
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