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|低山ハイク|葛城二十八宿、第28経塚(前編)関屋〜明神山「送迎(ひるめ)道」〜

昔、役行者は生駒宝山寺の般若窟に「般若経」を埋めた。

そして、「法華経」を和歌山の友ヶ島から和泉山脈、金剛、葛城、二上山を経て大和川の亀の瀬まで、山中やその付近の寺社などの二十八ヶ所に埋納したとされる経塚があり、葛城二十八宿という。
経塚とは平安時代の末法思想により,仏教経典を書写し、仏法滅亡後の経典の消滅に備えて地下に埋納し,その上に小さな塚を築いたということです。

そこは最近「葛城修験」として整備され、良くわかるHPもあり、
今回は第28経塚をHPの地図を参考にして歩きました。


2024年2月24日 
近鉄大阪線「関屋」駅、10時前着。
初めて降りる駅、ホームを上がり改札出て、左、
ターミナル正面から出るが、線路沿いに歩く道が見つからない。
駅まで戻り、確認すると下る階段があった。

線路沿いを西へ、しばらく歩いて、案内板があり右へ曲がると

楠公矢除身替観音寺

創建は不明だが、元弘元年(1331)赤坂城落城の後、正成公は一時田尻の里に身を隠す事となる。
そこに正成公を討ち取るべく攻め来て、一本の矢が正成公の胸を貫いたが、不思議にも一滴の血潮も流れず、何の傷痕もなかった。
早速、正成公は観音寺の本尊へ拝すると、観音様の左胸のあたりに血が赤黒く流れ、御尊体を朱に染めていた。
正成公は滝で御尊体を拭い、一心称名して一族同門と共に益々その信仰を深められた。

これが“矢除身替観音”の由来であります。

観音寺HPより

正面から入り、参拝。

奥右に、新四国八十八ヶ所

裏山に広い場所に

頂上には仏塔

途中、深蛇大将=深沙大将=沙悟浄?

降りてくると入り口付近には、不動明王。
先程まで、熱心に拝んでいる方がおられた。

その隣には役行者像、行場のようだ。巡礼札が並ぶ。
その前では、お寺の作務衣姿のお母さんと子供がキャッチボール、
のんびりする。

日本遺産の葛城修験の目印

隣接している、右隣の階段を上る。

三輪神社

参拝。

振り返ると、綺麗な山
方角的には二上山か?

下り出て、右折、民家の間をすぎ、
右折し、西名神自動車道の下トンネルを抜けると

道の左側より登山口、10:45

少し坂道が続き、一息に上がる

「日本遺産、葛城修験」の白いテープの目印あり。
分岐を過ぎたあたりに巻いてあり、この方向で良いと安心する。
この後も数ヶ所あり、
初めての道でも、関谷から歩くのは分かりやすい。

他にも、明神山の案内は少々あり。

尾根道を行く、

関屋地蔵の分岐にて、ちょうど国分方面からのハイカー、
上ってきた関屋の登山口の方向を聞かれる。

関屋地蔵

お顔はわからない。お供えは、松ぼっくり!

11:16、登山口からここまで約30分

前日の雨で、所々道が湿っているところがあるが快適

アップダウンを繰り返す、

分岐を確認して

空が見え

確認し

左側の景色。

塔あり、由緒は不明

サクサクと、ここを役行者も歩いたのか?

繰り返し、確認し

右側は、二上、金剛山

左側は、信貴、生駒山。

ここで脇道へ左折、注意。11:59
関屋地蔵からおよそ45分、
ほとんど上りはなし、少しのアップダウンのみ。

しばらくすると下り、

周遊道に出て、右手に東屋
昼食、六甲縦走弁当、12:13

東屋横の道から急坂すぐ山頂。

明神山

標高273.6m、広く平坦な空間、見晴台など良く整備されている。

明神山は、かつては大和と河内を結ぶ「送迎(ひるめ)道」があったと伝えられています。標高273.6mながら、山頂の展望デッキからは360°の大パノラマが広がり、地滑りを繰り返してきた亀の瀬や世界遺産の法隆寺・東大寺・興福寺、大和三山など、大和平野を見渡せるほか、あべのハルカスや天候によっては淡路島や明石海峡大橋、比叡山までもが望めます。デッキには眺望の解説パネルや永遠の愛を誓い合うための「悠久の鐘」も設置されています。

奈良県HPより


水神社

参拝。
ここを葛城二十八宿の第28経塚とする説と
この北、大和川の亀の瀬とする説だあるそうだ。
鍵のかかった扉の中には、
修験の木製の巡礼札が収められていた。

半年程の期間だが、ここには
送迎太神宮(ヒルメダイジングウ)が建ち栄えていたそうだ。

明神山では、古くから地域の人びとによって、水の神様がお祀りされていますが、江戸時代には、全国の人が一斉に伊勢神宮にお参りする現象で ある「おかげ参り」にともなって、「オオヒルメノミコト(天照大神の別称)」 という神様がお祀りされたこともありました。それは、半年ほどの期間だけでしたが、山頂に「送迎太神宮(ヒルメダイジングウ)」 という神社が建てられ、「和州送迎太神宮之図」 という当時の絵図がその様子を伝えてくれています。

明神山 案内板より

和州送迎太神宮之図には
南、左上には二上山。葛城山、金剛山
西、右上には住吉が描かれている。

また送迎(ヒルメ)道は聖徳太子を地元の人が送迎した道と伝えられ、
伊勢参りが盛んになった時には、
ここの送迎太神宮に参った後、伊勢参りが流行り賑わったそうだ。

 柏原市国分東条町から王寺町の明神山へ登り、畠田へ下る道を送迎(ひるめ)道といいます。聖徳太子を地元の人たちが送迎した道だと伝えられています。
 送迎道は、江戸時代後期に「ええじゃないか」と称した伊勢参りが流行した際に、大勢の人によって利用された道です。文政13年(1830)に、明神山にお札が降ったことによって、明神山山頂近くに送迎太神宮が設けられました。この太神宮に参って伊勢へ参ることが流行し、大勢の人で賑わったということです。

柏原市HPより


そして、次のような昔話が伝わっているとの案内板があった。

明神山で太神宮をはやらしたのは、山にいた二匹の白狐で、内宮や外宮、宇治橋まであった。遠方から伊勢の皇太神宮へお参りする人は、必ず送迎の 峠を越えるので、ここが大和の皇太神宮で本家本元であるとか言って、太神宮さんのお札を授けた。関屋の甚九郎 さんが白狐一匹を射ったところ、白狐が武士に化け、郡山藩主が「ニセの皇太神宮」だと言って、命を下して太神宮をこぼってしまった。

明神山 案内板より

つまり、どこかの山師が「伊勢参り」のルートの賑わい、人気に便乗して、ここに「オオヒルメノミコト(天照大神の別称)」を祀ったまではいいとして、それを二匹の白ギツネ(誰?)が不正をし、誇大広告したために、郡山藩主に、たった半年で壊されたという事なのか?

今も昔も、あまり世の中は変わらない。
ここに「和州送迎太神宮」が、ずっと祀られていたら、
現在は、どうなっていたのかと思うと楽しくなる。



また付近は、高い山も建物もないので、遠くまでよく見える。

王寺町の明神山は標高273.6mの低い山ですが、山頂では360°の大パノラマがひらけ、5つの世界遺産を目にすることができます。

王寺観光協会HPより

北側、信貴、生駒山方面の眺め



南側の案内板

当日の実際の景色、二上山は雄岳だけが見えている。


大和三山

矢田丘陵

この後は、山を下り、大和川を越え、
もう一つの葛城二十八宿の第28経塚とする説の
亀の瀬へと向かいますが



それは、後編に!











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