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『詩』絵本/揚羽蝶が


水平線を
揚羽蝶が飛んでゆく
わたしはフェリーの舷側に立って
その黄色い揚羽蝶を見ている
波頭と 水平線と それから
黄色い揚羽蝶
他に見るものが何もないから
わたしはずっと
揚羽蝶のことを見ている
午後の日差しが背後に回って
揚羽蝶がよく見える その羽ばたきが
 ⎯⎯ あんなに羽ばたいて疲れないかしら
そんなことをおもいながら
こんな水平線の上に 本当なら
いるはずのない揚羽蝶を
わたしはずっと見つめている スクリューと
その波音が聞こえている甲板で
水平線だけがある
水平線なんてない
揚羽蝶を わたしは見ている



あたかも上昇気流に乗ったかのように 揚羽蝶が
急速に舞い上がる 僕の目の前を
標高三千メートルの山頂へ向かって
コッヘルを取り出す手を止めて
僕は思わず揚羽蝶を見送る
二千メートルを過ぎて
僕らは初めてテントを張った いただきを見上げる
広々としたこのカールに そして
バタバタと夕飯の支度をしながら
今日一日の行程を確かめ
くだらない戯言たわごとに笑顔を向けて
そのうちに 手元が暗くなり始め
一人が尾根の上を指さすと 夕空が
今しも稜線を縁取り始めている
つられて僕も見上げると 夕焼けと
空のあわいの紫のなか 揚羽蝶が
ごく小さな点となって羽ばたいている
本当なら見えるはずのない
小さな黄色の光となって
僕は再び手を止めて 揚羽蝶を
なんだか懐かしいもののように見つめた 僕の背中を
仲間のひとりがどやしつけるまで
明日はモルゲンロートが拝めるだろうか



わたしは白い通りを歩いている
石畳の道 モルタルの白い壁 灰色のクールーフ
太陽はいつも真上から差していて
時折キャベリーヌの広いつば先を掠めながら
真っ黒な揚羽蝶が 誘うように
わたしの少し先をゆく
明るい緑色に塗られた木枠の格子窓を押し開けて
少年がわたしに手を振る つばを上げて
少年にわたしも笑顔を返す
あたかもホバリングのように そのあいだ
揚羽蝶はその場にとどまっている
随分とせわしく羽ばたきながら
そこからまた少しゆくと
家並は徐々に途切れがちになり 芋畑が
道の両側から迫ってきて やがて
広い畑の先にゆるやかにうね
長い地平線が現れる
家並がすっかり終わる頃には 足元は
砂埃の舞う砂利道になり
真っ白いじゃがいもの花が 一面に
遥かな地平線まで咲き誇っている
ああ これをわたしに見せたくて 揚羽蝶は
先を飛んでいってくれたのかしら
畑の真ん中に足を止めて
わたしは地平線を見晴るかす いつの間に
揚羽蝶が消えていった先を
不意に 広い畑の上に風が来て
キャベリーヌのつばをわたしは押さえた



まだ花には少し早い
銀木犀の庭木に水をやっていると
ホースを持った手の上を
二匹の揚羽蝶が掠めてゆく
羽ばたきがくうを打って 聞こえるはずのない
羽音が僕のなかで記憶に変わる
あのひとがいなくなってから
もう何年になるだろう?
たくさんの緑が夏をなぞって
そうしてほんの少しずつ
色褪せてゆこうとしているそのなかで あの日から
履けなくなったあのひとのサンダルと
枯らしてしまった植木鉢が 庭の隅で
やっと冷めてゆこうとしている
いつより激しかった暑熱から
 ⎯⎯ 揚羽蝶は 明日もここに来るだろうか
そうおもいながらホースをまとめ 見上げると
向かいの山頂で鉄塔が
まだ暑さに耐えている でもほんの少し
空は高くなっただろうか
鉄塔の先の絹雲のために
たぶん 昨日よりは




このところ、自宅の庭に揚羽蝶がよく飛んできます。同じやつかどうかはわからないけれど、毎日のように。向かいの家にも生垣代わりの木が植っていて、どうやらそこにも来ているので、そこからこちらへやってくるようです。そんな揚羽蝶を見ていて、上の詩ができました。
「絵本」としたのは、四つのお話による絵本をイメージしたからです。
二つ目など、どこやらの山におもえるかもしれないけれど、きっと気のせいです、僕はそこに行ったことはありません(汗)。
しかし、揚羽蝶というやつはいつまでも元気ですね。

なお、言葉の意味は次のとおりです。
⚫︎コッヘル アウトドア用の小型の調理器具のこと。鍋とか、フライパンとか。
⚫︎カール 氷河が削ってできた峡谷のこと。
⚫︎モルゲンロート 朝日を受けて高い山々が赤く染まる現象です。
⚫︎クールーフ 天然石の屋根のこと。
⚫︎キャベリーヌ つばの広い婦人用の帽子。
⚫︎ホバリング 鳥やヘリコプターなどが空中に止まること。




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