見出し画像

『詩』まだ何も知らなかったあの頃

まだ何も知らなかったあの頃
古い三八さんぱち銃を杖代わりに
酒と えた汚物の臭いが充満する暗い裏通りを
僕はひとりで歩いていた
まだ起きていないことは
まだ起きていないことで
もちろん誰にも知るすべがなかった


終わりかけた
誰かの鼓動を数えているかのように
赤く 酒場のネオンが点滅している
路地を抜けて向こうに出られれば
真っ黒な タールのような海が
身悶えする怪しい生き物のようにうねっていて
その代わり
辿り着ければ希望があるとおもったけれど
ネオンの下に置かれたごみばけつの
わずかにずれた蓋の隙間から
あの日のおまえの黄色い眼が 射抜くように
ぎらぎらと真っ直ぐにこちらを睨んでいて
僕はすり抜けてゆくことができなかった



まだ何も知らなかったあの頃
激しい銃撃戦のあとの
屋根のない 崩れかけた煉瓦の建物の陰で
生まれようとして
ここでは嫌だと僕は駄々を捏ねていた
風が砂埃を巻き上げて通り
そんな僕を見つめるあなたの両眼からこぼれ落ちた
怒りと悲しみのないまぜになった赤黒い涙が
瓦礫で埋め尽くされた大地をじわじわ染め抜いてゆくのを
僕は不意に黙り込んで
じっと眼を瞠いて 瞬きもせず
怖いものにでも出会ったように
見つめた


煉瓦の陰から顔を出すと
焼けこげた並木の残骸の先には運河があり 運河を越えて
そのさらに向こうでは
まだ黒い煙が上がっていた
油と汗と血に染まったナッパ服の男が背後から首を伸ばして
「あの黒い煙のもっと先に
新しい世紀があるのだそうだ」と
疲れ切った声で力なくつぶやいた
それがどういうものか僕は知らなかったけれど
それより男の姿が見えていることのほうが
僕には不思議でならなかった


僕はそこへ 新しい世紀へ
人々はそこへ 新世紀へ
あのとき誰もが行きたいと
そう おもっていたのだろうか?
そこへ行かなくてはならないと
誰もがおもい込んでいたのだろうか?
僕は何も知らなかった
僕は何一つ知らなかった
崩れかけた煉瓦の陰で
暗い 裏通りの路地の奥で
重すぎる<自分>というやつを抱えながら
ただずっと
もっと知らなければならない、と
今すぐ知らなくてはならないと
そうでなければ手遅れになる、と
眼を真っ赤に充血させて
僕はひたすら焦っていた




今回もお読みいただきありがとうございます。
他にもこんな記事。

◾️辻邦生さんの作品レビューはこちらからぜひ。

◾️大して役に立つことも書いてないけれど、レビュー以外の「真面目な」エッセイはこちら。

◾️noterさんの、心に残る文章も集めています。ぜひ!

◾️他にもいろいろありの「真面目な」サイトマップです。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?