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『詩』あたりまえのこと

雨上がりの林を歩いていると
雫が緑色に光っている
雫の一滴一滴に
過ぎてきたことが映っていて
ときおり足を止めて
緑の葉の一枚に手を触れると 雫が落ちて
記憶がふっと蘇る


その施設では
目が合うとお婆さんが
きまって僕の手を取りに来てくれた
寄り添うようにして歩きながら お婆さんは
遠く離れた街から息子夫婦が
今度会いに来てくれるんだよ、と
いつも嬉しそうに話してくれた
あの子は英語が喋れてね
今はよその国に行ってるんだよ
今度帰ってくるんだって
でも僕は息子夫婦に
一度も会ったことがなかった
あんたの手はあったかいねえ
お婆さんは小さくて
僕を見上げてふとそう言った



また別の施設では男の子が
僕が何か言うたびに
おかしそうに声をあげて笑った
そんなに面白い?
カメラを構えながら尋ねると
男の子は両手を口に当てて
クックッ、と震えていたけれど
こらえきれないというように
すぐに手を離して吹き出してしまった
帰り際にまたねと言うと
バイバイ、と彼は小さく手を振ってくれた


まるで空を支えていると言わんばかりの
大きなビルの陰には週に一度
子どもたちが集まるお寺があった
子どもたちとお母さんとで
本堂横の広い座敷にテーブルを並べ
めいめいで用意したお弁当や
お寺で出してくれたお惣菜や
ジュースやお菓子や果物などを
僕も一緒に座って食べた
夏の暑い午後だったけれど
広い座敷には風が通り
話し声や 笑い声が絶えなかった


僕たちが大人になってしまったので この町では
子どもの声がしなくなった
都会でも
訪れたことのある小学校が二つ
街の真ん中から姿を消した
重い鉄の門扉が閉ざされ その奥で
校庭には雑草が伸びていた



いろんなことが
毎日のように姿を変えてゆく
広げた手のように道が伸びたり
村がひとつなくなったり
雨が降ったり
月が照ったり
朝が来て夜が来て
そしてまた朝が来て


林の中を歩いていると
日当たりのよい道端で ミズヒキが
ものをねだるように細い茎を伸ばしている
風が吹くとさわさわと揺れて
花の季節には早いけれど
ああ生きている、と僕はおもう
生きているだけでいい
生きていることがいい
あたりまえのことを
僕はおもう


*画像はイメージです




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