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『安土往還記』イタリア人船員の「私」が語る信長と、辻邦生が安土城に見ようとしたもの

発行年/1968年
『安土往還記』は辻邦生さんの三作目の長編です。
その昔、村上龍氏は二作目にあたる『海の向こうで戦争が始まる』のあとがきで、友人のナントカいう人物(名前は忘れました)に、二作目に当たる作品を書いたよ、といったら、処女作は云々で(そこも忘れました)、二作目はその勢いで書ける、作家としての技量が本当に見定められるのは三作目だ、といったようなことを言われてくさった、というようなことを書かれていました。
その意味では、本作は辻邦生さんの作品の中でも作家としての立ち位置が固まった、重要な作品だということが言えるとおもいます。


辻邦生さんがこの作品について考え始めたのは1958年のパリ滞在中だったそうです。ちなみに、NHKの大河ドラマで初めて信長が登場するのが、1965年の『太閤記』でした。これの原作が吉川英治の『新書太閤記』で、1939年から51年まで断続的に新聞連載されたものです。


司馬遼太郎さんの『新史太閤記』は1966年から68年まで『小説新潮』に連載されました。なので、その連載とダブるようにして、辻邦生作品が書かれたことになります。上記のNHK大河ドラマといい、ちょうど世間が求めていたところにうまくマッチしたのかもしれません。
ただ、辻邦生さんの場合はその視点から全く異なっています。そこが本作の魅力でもあるのです。




1.作品の概要

①本作の外観

『安土往還記』は、イタリア人船員の「私」がイエズス会宣教師のオルガンティノを日本へ送り届け、そのままオルガンティノとともに日本に残って体験したことを語っている、という体裁を取っています。さらにそれは「私」が誰かに宛てた書簡であり、南仏に住む蔵書家の書庫から発見されたもので、原文はイタリア語であったものをこの蔵書家がフランス語訳を試み、それをさらに日本人の(語り手とは別の)「私」が日本語に訳したという、複雑な経緯の設定がなされています。そういう複雑な形にしたのには、次の二つの理由があるとおもわれます。

・(当然のことながら)日本語で書かれている小説にするため
・織田信長の心情を外から見つめることにしたため

しかし小説である以前にこれは「私」の手になる書簡なので、その点をできるだけ<らしく>するため、日本人名には主に原語表記のようなローマ字が、建築物にはイタリアやポルトガルでのそれに相当する名称が使われています。例えば次のような具合です。

・大殿(シニョーレ)に敵対しているMioxendono(三好殿)は南の方角から京都へ圧力を加えており、同じく北の方角から Asaydono(浅井殿)、Asacuradono(朝倉殿)が大殿を圧迫していた。

・安土の城郭(カステルロ)が見えたのはミヤコを出た次の日の昼過ぎだった。

いずれも『安土往還記』 新潮文庫より

②本作の2つの柱

上記にも記したように、織田信長の一生については『信長公記』を定本として随分昔から語り継がれ、取り上げられてきたため、大抵の方がご存知でしょう。しかし本作では、その始まりは叡山焼き討ちが最初のエピソードになります。そして、明智光秀の謀反によって信長の治世が終わるまでの約10年が本作の舞台です。

とは言うものの、主軸はそれだけではありません。むしろそれと並行して語られる、オルガンティノや同じ宣教師のルイス・フロイスたちによるキリスト教の布教活動が、この作品のもう一方の柱となってより重要な位置を占めています。加えて、そこには彼らに心を寄せる大殿(シニョーレ=織田信長)の心情があり、一つ一つのエピソードごとに、大殿の気持ちの有り様が事細かに語られるのです。

③安土城と安土セミナリオ

オルガンティノやルイス・フロイスによる布教活動が一方のテーマということは、そのクライマックスはやはり大殿(シニョーレ)のお膝元に建てられる教会堂(安土セミナリオ)の建設ということになります。安土城と同じ色の瓦を使うことを求めた大殿の思惑がどこにあったのか、そして、安土城とセミナリオは本作の中でどういった意味を持ったのか。それがこの『安土往還記』の一番大きなポイントなのです。

④本能寺の変がクライマックスではないということ

大抵の小説やドラマなどでは、織田信長のクライマックスというとやはり「本能寺の変」ということになるでしょう。明智光秀の謀反の理由やその死にまつわる謎も含めて、信長といえば本能寺の変、というのがあたりまえになっています。
でもこの『安土往還記』では、ストーリーは本能寺に向かって収束していくのです。それは③に書いたように、辻邦生さんが描きたかったのはそこではない、という点に尽きます。本能寺をどう描くか、ということに興味を抱いて読み進めると、最後にがっかりするかもしれません。本作に初めて当たる方には、それはぜひ知っておいていただきたいとおもいます。


2.語り手がなぜ架空の「私」なのか?

他の信長関係の小説を読んだことがないので他がどうなのかはわかりませんが、例えばNHK大河ドラマ第30作の『信長 KING OF ZIPANGU』では、宣教師のルイス・フロイスが語り手として、ナレーションを行っていました。彼が書いた『日本史』を下敷にしていると考えれば、これは当然でしょう。本作でも、他にオルガンティノや巡察使ヴァリニャーノの布教報告書がもとになっているのは間違いないとおもわれます。しかし彼らを語り手にしなかったのには、そこに辻邦生さんなりの思惑があったためと僕は考えています。


①「私」という人物の特徴

オルガンティノが乗る船の航海者になる以前、「私」はさまざまの体験をしていました。「私」が従事した仕事や起こした事件に関することが書かれた部分を少し抜粋します。

・たしかにノヴィスパニアでは、私は三年のあいだ、あの片目の総督のもとで、指揮官の一人として働いた。

・私が軍隊を離れてモルッカ諸島へ出航するスペイン船団に加わったのは、片目の総督に対する失望もあったが、それ以上に私は、自分の宿命をぎりぎりのところまで追いつめたいという凶暴な気持ちに駆りたてられていたからである。

・私はジェノヴァの官憲の手を逃れて、リスボアへ渡った。
リスボアで私は荷かつぎをやり、港の倉庫の隅でねむり、町を歩きまわり、馭者の鞭で叩きのめされ、女たちに嘲笑された。時には私は人の前に這いつくばり、酒場で物乞いをし、露店の雑貨をかすめとった。そうなのだ、私は殺人を犯したばかりではない、乞食となり、こそ泥をやり、もっとも恥ずべき仲間にさえ身を売ったのだ。

いずれも『安土往還記』 新潮文庫より

こんなふうに、単なる宣教師ではない、酸いも甘いも嚙み分けた「私」でありまた、あらゆる経験を積んだ人物を作り上げることで、辻邦生さんはより詳細に、他の人物では入り込めないところにまで「私」を行かせることができたのです。

②そんな「私」だからこそ心を開いた大殿(信長)

織田信長と言えば、一般的なイメージは「残忍で血も涙もない魔王」といったところでしょうか。けれどこの作品に登場する信長は、子供っぽい旺盛な好奇心と、鋭い洞察力と、絶対君主ゆえに誰にも理解されない孤独を抱いたひとりの優れた為政者として描かれています。
歴史好きの方ならよくご存知の<浅井・朝倉どくろ碗事件>のことを伝え聞いた「私」が、そのことに関連して大殿の気持ちを慮る記述があります。

しかしそうした戦術戦略をひとり彼の残忍さに帰すべきだと考えるには、私は、彼の子供のようなはにかみ、率直な好奇心、探究心、快活な態度、細かい思いやりなどをあまり知りすぎていたのだ。私はむしろ大殿(シニョーレ)が決して我意や個人的な単純な怨恨から残忍な殲滅を行なうはずがないと感じていた。

『安土往還記』 新潮文庫より

「私」は①のような理由から銃器に通じ、船を操ることができ、さらにイタリア建築にも覚えがあったため、常に大殿の身近にあって鉄砲隊を修練するかたわら、オルガンティノとともに安土セミナリオの建築に奔走したりもしたのでした。なので、誰よりも大殿の心情を知ることができる立場にいたのです。そして、そんな「私」だからこそ、大殿も誰より「私」を信頼し、相談役のように頼りにしたのでした。

それ故にこそ「私」が知ることのできた、大殿のもうひとつの一面が特徴的です。

私が大殿(シニョーレ)のなかにみた苦悩の刻印は、一方では、自分のなかのこうした不断の克己、不断の緊張の結果だった。が、それは同時に、そうした過酷な要求が次第に周囲に畏怖をうみだし、その畏怖のため、人々は大殿に近づくことができず、そこにおのずと孤独の黒ずんだ影が生れていたという事実を、物語っていたのである。

『安土往還記』 新潮文庫より

何度も言いますが、「私」は実在の人物ではありません。もし大殿の心に深入りし過ぎ、その戦略さえも担い過ぎているとすればそれは、「私」が信長その人の分身として作られたもののようだからという気がします。


3.安土城と安土教会堂

『安土往還記』は辻邦生さんの長編作品の中では特に長いものではありません。むしろ中編程度と言ってよいでしょう。そんな本作の中で、安土城とそれに続くセミナリオ建設は、実に40ページ以上もの分量が費やされています(新潮文庫版の場合)。
どちらの建物も今は現存しません。他の小説や文献でも描かれることはありますが、安土教会堂はキリシタン関連資料でもなけれは言うまでもなく、安土城も実際にそこにあったのはごくわずかな期間に過ぎないため、登場するのは信長の権力の象徴としてくらいでしょう。

しかし、本作ではこの二つの建物こそが、要となってテーマを押さえている気がします。

『安土往還記』が『廻廊にて』『夏の砦』に続く三作目の長編として書かれたことは最初にお伝えしました。先の二作品のテーマは、「人間の生死を超えて芸術があり続けること」でした。そのために、『廻廊にて』のマーシャやアンドレ・ドーベルニュ、『夏の砦』の支倉冬子の《生》があったのです。

実はこの『安土往還記』も、その一連の流れの中にある作品と見ることができます。大殿(シニョーレ)の死を超えてあり続けるもの、それこそが安土城であり、教会堂であるべきでした。ギリシャのパルテノン神殿のように、あらゆる人間の《生》《死》の上に永遠にあり続けるもの。
大殿は安土城を屏風に描かせ、巡察使ヴァリニャーノが一時帰国する際、それを土産に与えようとしていた、本作の中でそう書かれています。そうであるならば、実物の焼失を超えて安土城は永遠に残り続けたことでしょう。この小説が、まるで蝋燭の火が消えてゆくように静かに終焉を迎えるのは、安土城や教会堂が失われたためだというおもいが僕の中には残っています。
そんな安土城を、あたかも今眼前に見る思いにさせられるのが以下の部分です。

安土の宮殿(パラッツォ)は近くから見あげると、山の斜面を覆う繁みごしに、青い瓦屋根をそらせた七層の巨大な塔が、黒漆に黄金の窓飾りをつけた城郭の建物のうえに、壮麗な姿で聳えたっていた。山頂近く巨石を積みあげた石塁のうえに、銃眼をうがった眩しいほどの白い胸壁が宮殿(パラッツォ)の外廓をくっきりと際立てていた。宮殿そのものは華麗な印象を与えるにもかかわらず、その辺りには清らかな静けさが支配していた。時おり湖面を渡ってくる風が、斜面の繁みをさやさやと吹きかえして過ぎていった。

『安土往還記』 新潮文庫より

安土城を描くのに、大抵の場合「宮殿そのものは華麗な印象を与えるにもかかわらず、その辺りには清らかな静けさが支配していた」とは書かないでしょう。辻邦生さんが安土城をどのようなものにしようとしていたかがよくわかる記述だとおもいます。

ただ廃墟は廃墟として、かつてはそこに壮麗な宮殿が建っていたという事実、そしてそれが失われたあとの虚無感が永遠に残り続けるとするならば、巷でときどき話題にのぼるような復元など、僕は必要ないとおもってはいるのですが。


4.最後に

長島一向一揆の戦闘の様子や九鬼水軍の活躍、花見の宴や武将パレードなど、まだまだご紹介したいポイントやエピソードはたくさんあります。でもそれをやっていると、そこまで長くないこの作品をまるごと書き写さなくてはならなくなってしまいそうなので、この辺で終わりにしたいとおもいます。ただ最後に一言付け加えたいのは、本作に登場する信長はあくまで「私」の手になる大殿(シニョーレ)であって、他の小説や、映画や、テレビドラマに出てくる織田信長とは一線を画しているということです。そしてそれは敢えて言うなら、大河ドラマ「麒麟がくる」の染谷将太信長に一番似ていると、僕はおもってしまいました。




【今回のことば】

名人上手といえる人は、ひたすら木の道、絵の道に終始して懈怠あることなく、道理(ことわり)を求めて自らを恃むのである。かくてはじめて事が成るのである。事成ってはじめて人々がそれを受けいれるのである。事成るに於てはじめて名人上手があるのである。されば兵法家が合戦において慈悲を思わぬは、画工がひたすらに絵の道にとどまるのと同様である。もし絵の道をほかにして画工の気魂が生きえぬとすれば、合戦をほかにして兵法家の気魂の生きうる道理はない。合戦において慈悲を思わぬは、ただただ兵法家の気魂を生かしむるためである。

『安土往還記』 新潮文庫より




『安土往還記』
新潮文庫 1972年

辻邦生作品全六巻〈4〉 1973年


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