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『演技と身体』

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東西の哲学、解剖学、脳神経学、古典芸能(能)の身体技法や芸論を参照しながら独自の演技論を展開しています。実践の場としてのワークショップも並行して実施していきますので、そちらも是非… もっと読む
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#身体性

 『演技と身体』Vol.22 感情と身体① 〜なぜ身体論なのか〜

『演技と身体』Vol.22 感情と身体① 〜なぜ身体論なのか〜

感情と身体① 〜なぜ身体論なのか〜軽んじられてきた身体

この連載記事は身体論的アプローチによって演技を考えようというものであるが、“身体論”という響きにはどこか心の動きを軽視するような感じがあると思われるところがあるようだ。だが言いたいことは逆である。心の動きについて考える時、身体を離れて考えることは本来できないはずである。それなのに、これまでの演技論では身体的な側面は軽んじられてきたように思う

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『演技と身体』Vol.11 指向性のある爆発

『演技と身体』Vol.11 指向性のある爆発

指向性のある爆発生命は爆発だ

芸術は爆発だ。
芸術は爆発で、爆発は無限に広がる運動で、宇宙だ。
しかし、芸術だけじゃない。
生命も爆発だ。無限に広がる運動で宇宙なのだ。
海の生物の形を思い浮かべてみよう。特に無脊椎動物を。
ウニ、タコ、イソギンチャク、ヒトデ。
どう見ても爆発している。
海の生物を選んだのは、海の中は浮力によって重力の影響が少なくなるからである。しかし、地上に上がって広葉樹や花の

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『演技と身体』Vol.10 身体の脱植民地化

『演技と身体』Vol.10 身体の脱植民地化

身体の脱植民地化「気をつけ!」「休め!」「前へならえ!」

今回は身体の脱植民地化というテーマで書いていこうと思うが、脱植民地化するということは身体が植民地状態にあるということが前提となる。一体誰の植民地だというのだろう。
それは「ことば」である。
哲学者のミシェル・セールは著書『五感 混合体の哲学』の中で、「ことば」こそが人間の感覚を麻痺させてきたのだと述べている。しかし、「ことば」が身体を植民

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『演技と身体』Vol.8 感情と内臓

『演技と身体』Vol.8 感情と内臓

感情と内臓感情の”よくわからなさ”

感情とは何か。科学や哲学、あらゆる分野でおそらく決着のついていないテーマだし、よくわからないからこそ魅力的でもある。
感情というものを科学的、哲学的に解剖・解明しようというのは、芸術の立場からは程遠く、よくわからないものをよくわからないままに表現しようというのが芝居である。きっと多くの人がそう考えている。
しかし、よくわからないものをよくわからないまま抱えてお

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『演技と身体』Vol.7 深層筋ネットワークの力

『演技と身体』Vol.7 深層筋ネットワークの力

深層筋ネットワークの力力強い芝居とは?

近年の日本映画は、観ていても何だか力強さがない。自分でも映画を作っていて、この力強さという点で難しさを感じる。
迫力を出そうという時、ついワーワーと声を張り上げがちだ。それでも迫力が出ないのは、声が足りないからだ。もっと声を張り上げるべし。そんな流れをうっすらと感じる。一番叫んだ子が一等賞。そんなわけで人よりも大きく叫んだら名演と言われるような風潮がありや

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『演技と身体』Vol.6 ボディ・マップと再び脳の可塑性〜常に揺らぐ「私」とあなたがこの記事を読まない理由〜

『演技と身体』Vol.6 ボディ・マップと再び脳の可塑性〜常に揺らぐ「私」とあなたがこの記事を読まない理由〜

ボディ・マップと再び脳の可塑性〜常に揺らぐ「私」とあなたがこの記事を読まない理由〜脳の中の地図

少し哲学的な問いから始めてみよう。
「私」とはなんだろうか?
私とはこの肉体のことだろうか。あるいは私の魂なるものが私の体に住まっているのだろうか。
これは役者にとって、とりわけ重要な問いに思われる。役に入り込む時に、「私」を持ち込むべきかという論争はしばし聞かれるものであるし、そもそもその役は私とは

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『演技と身体』Vol.5 呼吸と内観

『演技と身体』Vol.5 呼吸と内観

呼吸と内観吐息芝居が目に付く

セリフを言う前に吐息をして、それからセリフを言う役者をよく見かける。気にならない人も多いかもしれないけど、僕は気になる。すごく気になる。芝居っぽさを感じてしまうのだ。
思うにあれは、息を吸いすぎているせいなのではないかと思う。重心が胸のあたりに残っていると息が浅くなり、それを補おうと無意識に息を吸いすぎてしまう。吐息をしなくとも息を吸いすぎている役者は多く、そうする

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『演技と身体』Vol.4 可動域=柔軟性×脳の可塑性

『演技と身体』Vol.4 可動域=柔軟性×脳の可塑性

可動域=柔軟性×脳の可塑性ビバ&ファッキン 現代都市生活

今日は身体の”可動域”について書いていこうと思う。
みなさんは普段生活の中でどのくらいの範囲で身体を動かしているだろうか。例えば僕の今日一日を振り返ってみると、一番腕を高く上げたのがコーヒーをドリップする際にヤカンを持ち上げた時、膝を曲げたのは冷蔵庫から食材を取り出すためにしゃがんだ時くらい、とまあそんなものだ。
ああ、現代都市生活とはな

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『演技と身体』Vol.3 ”人間的”なるものを越え出る

『演技と身体』Vol.3 ”人間的”なるものを越え出る

”人間的”なるものを越え出る曖昧な”人間的”範囲

具体的な身体の使い方の話に入る前に哲学的な思索を一度挟んでおこう。
演技を通じて表現しようとするものは総じて”人間的”なものの範疇だろう。人間的な感情、人間的な業・罪などなど。しかし、この”人間的”の範囲について考えてみると案外曖昧なもの(というか恣意的なもの)である。
白人を中心(人間)として有色人種を奴隷(非人間)としたり、ゲルマン民族を中心

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『演技と身体』Vol.2 表現者の身体性

『演技と身体』Vol.2 表現者の身体性

表現者の身体性固定化された身体

表現の場で必要な身体性は、日常の身体性とは異なる。たとえ日常的なシーンであってもだ。
日常の動きはルーティン化され、ある程度固定化されている。しかし、これは役に立つ。毎日階段の降り方を変えたり、包丁の持ち方を変えてみたりしていたら、生活は必要のない怪我でままならなくなってしまう。エネルギーや集中力には限りがあるので、日常的な動きをルーティン化することで余分な力の浪

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『演技と身体』vol.1 演技は芸術なのか

『演技と身体』vol.1 演技は芸術なのか

演技は芸術なのか
映画は芸術か?演技は芸術なのか?
そう問われるとふと考え込んでしまう人をしばし目にする。しかし、どうせ答えなんて決まっていないのだから、それぞれがそれぞれの都合の良いように決めておいたら良い。そのことで思い悩む必要もないし、悩むのもまた自由だ。
僕にしてみると、映画は芸術だし演技も当然芸術である。
じゃあ、芸術とは何か?これもまた簡単だ。
「芸術は爆発だ」
それに尽きる。
爆発と

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