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【文学紹介】(続き)たおやかな春の酒宴に 庾信:詠画屏風詩二十五首 其四

1:前回の続き

前記事 【文学紹介】たおやかな春の酒宴に 庾信:詠画屏風詩二十五首 其四からの続きになります。

https://note.com/kohei_awj0614/n/n2802d1891ee2?sub_rt=share_pw

南朝梁の時代に生まれた詩人、庾信の作品を見ていきましょう。

2:詠画屏風詩二十五首 其四

【原文】
昨夜鳥声春,驚鳴動四隣。
今朝梅樹下,定有詠花人。
流星浮酒泛,粟瑱繞杯唇。
何労一片雨,喚作陽台神。


【書き下し】
昨夜 鳥声春なり、驚鳴 四隣を動かす。
今朝梅樹の下、定めて花を詠ずる人の有らん。
流星は酒泛(しゅはん)に浮かび、粟瑱(ぞくてん)は杯唇を繞(めぐ)る。
何ぞ労せん 一片雨、喚んで陽台の神と作すを。

【現代語訳】
昨日の夕べあたりから鳥の声も春めき、高らかな鳴き声は四方に響き渡る。
花を咲かせた今朝の梅の木には、詩を詠む人々がきっと集まっているだろう。
流星が酒盃に映り、女性の耳飾りがその周りでキラキラと輝いている。
どうしてわざわざ一面の雨に呼びかけて、あの巫山の南の高台に住む女神に出て来てもらう必要があろうか。


3:作品解説

今回の詩も五言古詩と呼ばれる形式です。
第一句目の春を含め、春(シュン)、隣(リン)、人(ジン)、唇(シン)、神(シン)で押韻しています。

今回の詩は題名に「詠画屏風詩(画屏風を詠ずるの詩)」とあるように、実際の場面ではなく屏風に描かれた絵に着想を得て想像力を膨らませて書いた題画詩です。

【1・2句目】

まずは1・2句目から。鳥の声が春めいてきたという季節の変化、そしてその声が四隣(=四方)に響き渡っています。
鶯の鳴き声がぎこちない調子から艶やかになっていくような感じでしょうか。絵画の中から春の訪れを音として想像して表しています。

【3・4句目】

3・4句目では、春を迎え咲き誇る梅の花とそれを囲む人々を描きます。
「定めて(きっと〜)」と強い推定を用いているのは絵の世界を受けて想像しているからでしょう。

咲き誇る梅の花があるのだから、きっと風流な人々が集まって詩歌を詠んでいるに違いない、と。
前回のような厳しい寒さの中で咲く凛としたイメージではなく、朝の陽の光を受けて輝く春の風物として描かれています。

by Takuro Obara @Pixabay

【5・6句目】

5・6句目では、梅の花の下で春の宴が催されています。
流星は「キラキラと輝く瞳」という解釈もあるようですが、僕のアクセスできる情報からでは根拠となる注釈に出会えなかったため、「流れ星」として訳しました(中国語の解説では流れ星でとっているところが多かったため)。酒盃に星が映っている様子ですね。

by Klaus Steban @Pixabay

粟瑱は女性の耳飾り、杯唇は酒盃のまわり。夜空の映った酒盃を高貴な女性たちの耳飾りが囲っている、といった感じだと思います。

女性を直接的には描かず、酒盃を受ける口元や耳のあたりだけをクローズアップして描写。夜空の星や耳飾りが酒盃に映っている様と相まって、とてもお洒落な表現だと思っています。

by David Barnard @Pixabay

この辺は書き下しにするよりも「流星浮酒泛,粟瑱繞杯唇」と漢字のまま一気に読んでしまった方がイメージしやすいかも知れません。

【7・8句目】

最後はこの詩の「オチ」になります。こんな素晴らしい宴にわざわざ女神様を呼ぶ必要なんてないだろう、と言う意味になります。

いきなり雨が登場して来ますが、これは以前お話しした巫山の女神のことです。別れ際に「朝には彩雲となり、夕べには雨となりあなたの前に現れましょう」と言うセリフを残した女神のエピソードを下敷きにしています。

「何ぞ労せん」は以下のすべてにかかり「どうしてわざわざ〜する必要があろうか?」くらいの意味になります。

「一片雨」の片は「一面の」と言う意味で、一定の広がりのある空間を表すときに使います。(李白の有名な詩でも「長安一片の月」とありますが、一緒で月の光で照らされた一面の空間を指しています)
「喚作陽台神」の喚んで雨を陽台の神=巫山の女神に変えると言うのは、雨が彼女の化身であるからですね。

わざわざ雨を呼び寄せて巫山の女神となって現れてくれなくたって大丈夫(同じくらい美しい人たちがいるのだから)、と言う感じでしょうか。

4:最後に

後半の4句で少し見慣れない表現が多く見られたかも知れませんが、全体を通じて感じる穏やかな春の酒宴の雰囲気が好きなのと、5・6句目の表現がとにかくお洒落だ!と言うことで今回取り上げてみました。

わずか10文字の中で、シンプルにサッとスケッチしたかのように、それでいて夜空の美しさや女性のきらびやかさが上品に切り取られている感じがして、毎回新鮮な気持ちになります。

何より、絵画一枚からこんな細部にまで想像を巡らせて、うまい具合に情景を切り取れると言うのもすごいなあ、、、と思います。

六朝時代の宮体詩にはこのような洒脱な表現やきらびやかな表現が多く、我々が漢詩漢文として想像するものからは少し異質に感じるものも多いです。(宮体詩は従来の伝統的な文学を脱する試みであったという指摘もあります。)

後世からは「なよなよとしていてて邪道だ」と言うような評価もされがちなのですが、この詩を読んで感じる新鮮さや清新さは決して悪いものではなく、伝統的な表現を打破しようとした当時の人々の試行錯誤の過程として読むと、また別の味わいも出てくるのでは、と思っています。

宮体詩のアンソロジーである玉台新詠は日本語でも解説書が出ておりますので、気になった方はぜひ読んでみてください。

それでは今回はこの辺で!

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