本当に大切なことは言葉にできない。言葉=100%分かり合えるツールではないのでは?
「なんでこの選択をとったのか」
仕事でもプライベートでも聞かれるこの質問。
ウッってなる。
畳みかけるように質問がきたとき、はじめましての人と話すとき、少し怖くなって言葉がうまくでてこない。
「ここで発する言葉の正解はなんだ」と、脳みそをフル回転させるが的外れな回答。
振り返れば幼い頃から周りを伺い、自分がこの場で適切な発言はなんだと考えすぎてしまっていた。
「なんかおもろいこと言ったほうがいいのではないか」、「いじるべきなのか」など、TVに出演しているコミュニケーション強者のマネをして言葉を発してみるも空振り。
自分の言葉で伝えることが苦手だからこそ、
演劇・映画という表現方法を身につけ、世の中にメッセージをしてきた。
そのときは、世の中に対しての疑問や思っていることを拙くとも自分なりに伝えられている気がしていた。
ただ大人になり、演劇・映画表現のスペシャリストにならなかったわたしは「言葉の世界」に再訪問することになった。
社交の場でよくある初対面の挨拶。
自分の経歴をチラッと話すと、
「へぇー。いろいろしてるんですね」
私に対してキラキラした興味の目で見てくれる人がいる。
しかし、話せば話すほど目が死んでいく。
誰かに何かを話すとき、100%面白く自分を伝えられなかったことに悲しくなる。
「なんでこの選択をとったのか」
仕事やプライベートで不意に聞かれる質問。
自分なりに一生懸命に考えて選択をしたのだけれど、選択までの葛藤を上手く伝えられない。
言葉=100%わかり合えるツールとして認識されている世の中。
自分の言葉で想いを伝えることが得意にならなければこの先もっと生きづらいだろう。
妄想してみよう。
もちろん文化は異なるし、言語が通じないのは当たり前だ。
どのようにコミュニケーションしていたのだろう。
そもそも言葉が伝わらないことは、何回か話そうと試みた結果すぐわかること。
「言葉」が重要なものとして捉えてなかったのではないか。
たとえば
大陸からきていた人が思わず海辺で転んでしまったとしよう。
「”!”#”$#%$#%(めちゃ痛い~)」って叫んだ。
すかさずなにか薬草のようなものを持った人が近づいてくる。
最初は「”$#%$#(こいつ何する気やねん)」って心の中でつぶやいてただろう。
でも、薬草を優しく塗られるうちに「”$#%$#(ええやつやん)」って変わっていく。
そんな非言語的コミュニケーションの積み重ねで関係性を紡いでいったのではないか。
西加奈子さんのインタビューのなかで、「自分の考えって遠回りしてやっとたどり着ける」というお話をされていた。
心の底から他人に伝えなければと思ったとき、「この言葉で伝わるだろうか」や「傷つかないかな」など考えて伝えるのをやめてしまっていた。
伝えることを諦めた自分をまた責めてしまう。
でも、それでもいいのかもしれない。
必ずしも伝えなくてもいい。
自分なりの言葉が見つかって、伝えたくなったらそのときにゆっくりと発するのでいい。
「こはるちゃんってリアクションいいよね」
言葉で伝えることが苦手なわたしは、どうやらリアクションという技術を身に着けたらしい。
苦手を克服するのではなく、得意をのばせばいいのではないか。
そう、縄文人のように言葉だけで伝えようとしなくていいのだから。
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