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「人新世の料理本」|フードデザインをよりよく知るための一冊①

人新世の料理本?

これからのフードデザインをよりよく知るための本を勝手に紹介していきたいと思います!その第一弾がこちら…
『THE ANTHROPOCENE COOKBOOK: Recipes and Opportunities for Future Catastrophes』

「地球が危機的な状況になる時、これまで"あまり"食べられてこなかったもの(昆虫、培養肉、藻類、ゲノム編集食材、腐敗したもの、ゴミ、空気、プラスチック、バクテリア、尿、人肉、など)を食べることは可能か?その時に必要な道具、技術、ルール、倫理観は?人体への影響や適した食べ方は?デザインやアート作品を通じて、具体的に想像を膨らませながら考えられないだろうか」というのが、ざっくりとした内容です。
 非常に読み応えがあります。恥ずかしながら知らない作品やコンセプトがたくさんあり、とても勉強になりました。

導入は、「人口は等比級数的に増加するが、食料(生活資源)は等差級数的にしか増えない」というマルサスの人口論を引用し、現在の急激な人口増加とそれに紐づく食料生産の拡大と環境負荷の状況を鑑みると、古代マヤ文明(人口爆発による環境破壊によって滅亡したとされる)や、グリーンランドのノース人社会(セイウチの乱獲で衰退したとされる)[1]と同じような社会の滅亡に向かってはいないか?という指摘(仮説)で始まります。
[1] | Julian Cribb, The Coming Famine(2010), p.155で、Jared Diamond, Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed(2005)について言及。

マルサスの人口モデルと食料生産の比較

さて、人新世の料理本:未来に起こる大惨事のためのレシピと機会、というタイトルですが、ここで注目すべきは「機会」というキーワードです。
 地球への負荷が問題視される現在のフードシステム。起こりうる危機を回避するために様々な“新たな”食(昆虫食や培養肉など)の可能性が模索されており、これまでとは異なる食事の仕方やあり方に注目が集まっています。
本書は、危機が起こった世界での食を紹介するだけでなく、危機が起こらないようにするための食を多数取り上げています。そうした食を具体的に示すことで、議論する「機会」をもたらすことが大きな目的であり、これはフードデザインの役割の一つ(クリティカル・デザインやスペキュラティヴ・デザインの側面)とも呼応します。
 ということで、本書は一般的な調理方法を紹介した料理本ではなく、未来の食について考える機会を与えるアートやデザイン、科学、倫理などを扱った一冊になっています。

この本にはいくつもの気になるキーワードがあったんですが、個人的には「Liminal」という単語に注目しました。辞書には「liminal: between or belonging to two different places, states, etc.(Cambridge Dictionary)」とあり、境界を表す言葉です。例えば「Liminal Aesthetics」という言葉を用いながら、別様の食生活に向かう移行期に、曖昧さを許容しながら思考するために、アートやデザインの性質を活かせるのでは、と書かれています。

liminal aesthetics: the aesthetics produced and experienced in the transitory phase as we move through ambiguous and uncertain times.

THE ANTHROPOCENE COOKBOOK, p.4

本書は、60余りの作品やコンセプトが持つ「Liminal Aesthetics」を通じて、我々は食材としての動物植物を思い通りにデザインし続けるのか?あるいは人間自体から栄養を摂ったり食材として用いたり、あるいは人体の仕組みを変えたりするのか?遺伝子工学などの技術を使って食事に求める楽しみは変わるのか、その時発生する問題(現状の昆虫飼育方法を、温帯地域で実施するには、温度調整や湿度管理に多大なエネルギーを必要とするため、そもそも持続可能なのか?[2]なども含め)があるのでは?などと多面的に考える機会を、多くの参考文献とともに提供してくれます。
[2] | Lorenzo A. Cadinu et al., Insect Rearing: Potential, Challenges, and Circularity(2020)
(ちなみに「liminal」という単語を調べる中で知った「liminal space」というネットミームについて本書では触れられてない、かつ、ネガティブな感情を強調して使っていない(と読んだ)ので、あまり「不気味」みたいなニュアンスでは意図していないと解釈しました。)

人新世?の料理本

人新世(じんしんせい、ひとしんせい、アントロポセン)とは、人類が地球の地質や生態系に与えた影響に注目して提案されている地質時代における現代を含む区分のこと。オゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンらが2000年に提唱し、2009年に国際地質科学連合で人新世作業部会が設置された。

Wikipedia

人新世の説明意義については他の方々を参考にしていただくとして、人間活動と地球環境、年代の関係を巨視的に捉えて表したプロジェクトが本書でも(当然)紹介されています。
 Pink Chicken Project, Nonhuman Nonsense (2017)は、「ゲノム編集技術を用いて骨と羽をピンク色に染めたニワトリ」というコンセプトを通じて、人間活動の地質学的な可視化を試みています。人間によって飼育され、“改良”されてきたニワトリの大きさ(重量)は、1950年代から2000年代までの半世紀の間に約4倍に増加したという報告があります。また、2021年には世界中でおよそ259億羽のニワトリが飼育されていたとも推計されています。もしこれだけ大量のニワトリがピンク色だったら、この時代に捨てられ、化石化した骨によってピンク色の地層が形成される未来の絵を描くことができます。そのピンク色の線がまさに人間活動の痕跡として残されるということを、彼らはデザイン、アート、科学の視点から示しているのです。

おわりに

このようにして、人間だけでなく、動物や植物、地球にまで対象を広げて考えることがフードデザインの面白い点であり、今まさに重要なこととでもあります。
 他にも本書では、タンパク質代替食材の生産にかかるエネルギーや栄養が、現状と比較して十分なのか?“現段階では”よりコストがかかるのでは?といった点についても議論しており、ただ単に面白い発想のインスピレーションという訳ではなく、現実的に検討するための情報を提示し、具体的に思考する姿勢を歓迎しています。
 『フードデザイン』では深く言及できなかった部分を事例やコンセプト、意図などを含めて詳しく説明している良書です。フードデザインの批評的、思索的な側面についてよりよく知ることができる一冊として、おすすめです。

フードデザインといえど、その対象の幅は広く、他にもいろいろとおすすめしたい本があるので、まだまだ続きます。

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本記事は執筆時点での情報をもとに書いたため、最新情報であるとは限らないことをご承知ください。また、本記事の内容は私見によるものであり、必ずしも所属企業の立場や戦略、意見を代表するものではありません。
また、あくまで筆者による読書記録としてご理解ください。誤訳や解釈の誤りがある場合はコメントにてご教示ください。


追記(2024年9月16日)

マルサスの「人口論」で示された人口増加モデルと食料生産の推移の比較は、現代の食料問題を理解する上で依然として重要です。この理論は、食料不足を説明する概念として分かりやすく、需給バランスの崩壊を説明する上で有効でした。また、そうしたアンバランスの可能性を示す図の下敷きになっているのだろうと理解する際に、(記事執筆当時)個人的に腑に落ちたため取り上げました。しかし、技術の進歩により、この理論の予測とは異なる展開も見られていることも事実です。

食料生産と人口増加の関係を考える上で、ハーバー・ボッシュ法の開発は重要な転換点となりました。この技術は食料生産を飛躍的に向上させ、人口増加に大きく貢献しました。しかし同時に、アンモニア合成に多くのエネルギーを必要とし、大量のCO₂を発生させるという新たな環境問題も引き起こしています。そのため、より環境に配慮した新たなアンモニア合成法の開発が研究されています(カルシウムやアルミニウムからなる触媒を用いる方法や、マメ科植物に共生する「根粒菌」という細菌がもつ「ニトロゲナーゼ」の分子中のモリブデンを含む触媒を用いる方法など)。

こうした技術的進歩にもかかわらず、現在も世界的な食料不安は深刻な問題です。試算によると、2050年までに食料生産量を2010年比で1.7倍にする必要があるとされています(🔗)。また、2023年の報告(🔗)では、59の国と地域で約2億8200万人が急性食料不安(深刻な飢餓)に陥っており、世界全体で前年から2400万人増加したとされています。特にガザ地区とスーダンにおける食料の安全保障の急激な悪化が懸念されます。

『THE ANTHROPOCENE COOKBOOK』のタイトルにも使用されている「人新世」という概念は、近年、学術的にも社会的にも議論の対象となっています。2024年3月、国際地質科学連合はこの用語を地質時代として承認しないことを発表しました。しかし、この決定は逆に「人新世」概念の再考を促す機会となっているように見受けられます。その上、日本第四紀学会が説明するように、「人間の地球システムへの影響を示す貴重で有益な表現として、地球科学者や環境科学者だけでなく、社会科学者、政治家、経済学者、そして一般の人々によっても引き続き使用されるでしょう」。

一方で、人新世という表現自体、人類(ただし、その人類に含まれるのは一部の人々に限る)がいまの世界を作り出し、気候危機を招いていることを含意しており、傲慢さがあると指摘されています。そこで、危機の影響に主眼を置いた「資本新世」や「植民新世」といった言葉も提案されています。また、産業革命の始まった当時から急速に進展する工業化が持続不可能なことを科学者たちは知っていたにもかかわらず、それを無効化し、人々に知られないようにしたことを指摘する「無知新世」という表現もあります。(🔗

人新世の概念が示唆する人類の影響力は、同時に環境問題の解決に対する人類の責任も示唆しています。しかし、この解決策を単純に科学技術に求めることへの批判も存在します。環境問題を科学技術によって解決しようというテクノクラート的な姿勢は、人新世の文脈でしばしば批判の対象となります。この点に関して、『より良い世界のためのデザイン』(ドン・ノーマン、2023年)では、テクノロジーが人間性を意識し、環境に配慮し、偏見や先入観にも注意を払うべきだと主張しています(同書、p.344)。(但し、ノーマン氏は、テクノロジー利用には好意的で、それを前提にした課題解決を議論している。)

『THE ANTHROPOCENE COOKBOOK』が提示する未来の食の可能性は、単なる技術的な提案ではなく、また、妄想的な可能性の提示に留まるのでもなく、倫理的・法的・社会的課題(ELSI)を含む広範な議論を必要とすることを再認識しました。誰がその食を享受し、どのように生産・消費・廃棄されるのか、そのプロセスに誰が関わり、どこで行われるのかまでを考慮に入れる必要があります。

少なくともデザインリサーチの文脈で未来の食を扱おうとする私自身は、改めて意識的に言葉を扱う必要があると同時に、いかに研究者に閉じずに検討し、実践していけるかを再考する機会となりました。この追記は、そうした思考プロセスの備忘録として残しておきます。

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