“I(アイ)”が無くても“愛”がある?「監察医 朝顔」と日本語の奥深さ。
さて、皆さん「月9」というドラマ枠をご存知ですか?
ええ、まぁご存知ですよね(笑)。
改めて説明するまでもなく「毎週月曜日21時(夜9時)に放送されるドラマ枠。」のことです。
普段私はドラマをほとんど観ませんが、今回の月9枠で放送されている「監察医 朝顔」はチラチラとチラ見しております。
理由は上野樹里が出ているから。
あと風間俊介が出ているからというのが5%位。
上野樹里を観るのは「のだめカンタービレ」で主演を務めたから。
それだけです(笑)。
「どうせ『監察医』とか言いながら、どっかのタイミングでピアノ弾き始めるんだろ? (笑)」とか半分冗談のツッコミを入れながら観ております。
まぁ、でもそろそろ「のだめっぽさ」が消えてちゃんと一女優にとして評価されても良いんじゃないかと思っているのは事実です(なぜか上からww)
このドラマの第二回が今週放送されたのですが、その中で私的に印象に残るシーン・・・「日本語の奥深さ」が感じられるシーンがあったので、今日はそのことについて書いてみたいと思います。
「監察医 朝顔」ってどんなドラマ?
※このドラマをご覧になっている方はすっ飛ばして頂いて結構です。
上野樹里が演じるのは主人公、万木朝顔(まき・あさがお)は、新米法医学者。法医学者とは、事件性の疑いの有無にかかわらず、死因不明の遺体の死因を究明する仕事(科捜研の◯をイメージして頂ければほぼ間違いないww)。
その朝顔の父親が、時任三郎演じるベテラン刑事・万木平(まき・たいら)。娘は解剖で、父親は捜査で、遺体の謎(大体が不審死なので)を解き明かしていくドラマです。
基本的には“科捜研の女”調・・・ならぬサスペンス調なのですが、上野樹里の恋人役である風間俊介が父親の部下だったりと、一応恋愛ドラマっぽい要素も入ってます。
ただ、この親娘にはひとつ秘密があります。
秘密というほどではないのですが、母親が東日本大震災に巻き込まれて犠牲になってしまったのです。
上野樹里演じる朝顔は、震災時に母親といっしょに現地にいましたが、ひょんなことから自分だけが助かり、母親は津波に巻き込まれ亡くなってしまいます。
自分だけが生き残ってしまったことに自責の念を感じながら、法医学者として人の死に向かい合っていく・・・そんな朝顔の心情が描かれるのも、このドラマの見どころのひとつです。
“主語なし”が生み出す苦しみの共感
そんな月9らしからぬ暗い影を背負ったドラマですが、その第二回の最後の方にこんなシーンがありました。
勤務先のビルの屋上で、朝顔は上司の女性(山口智子)とアイスクリームを食べています。
実はこの上司は東日本大震災の際に、医者として現地を訪れ被災者を助ける業務をしていました。その時に母親を亡くして呆然としている朝顔に目をかけていたのです。
朝顔の過去は職場では誰も知りませんが、この上司だけは彼女の苦しみを知っている、という設定です。
初回放送の最後に朝顔は、とあるきっかけで震災以来訪れていなかった実家のある東北へ行こうと思い立ちます。
しかし、地元の駅に降り立った途端、震災の時の記憶が蘇り身体が動かなくなり、結局駅からそのまま東京に帰ってしまうのでした。
そのことをビルの屋上で上司である山口智子に打ち明けるのです。
朝顔:「先生、この前父と行ってきました。母のふるさと。」
上司: 「・・・そうですか。」
朝顔: 「・・でも電車降りて、海を見たら・・・急に怖くなって。・・・一歩も動けませんでした・・・。」
<長い沈黙>
上司:「・・・・そうですか。」
<そしてまた2人でアイスクリームを食べ合う>
身体の奥底まで染み込んだ恐怖に苦しみながら向き合おうとする主人公と、それを受け入れる上司。
まぁ、シーンとしてはよくある描写かもしれません。
ましてや、実際に被害に遭われた方を除けば「涙を誘う・・・!」というほど辛いシーンではなかったかもしれません。
でも、私はこのシーンに「日本語の奥深さ」を感じざるを得ませんでした。
主語がなくても成立する言語。主語がないからこそ伝わる感情。
ちょっと話が変わりますが、日本語はよく「表現が曖昧な言語」だと言われます。
「論理的な思考には向かない」とも。
それはいろいろな理由があるのですが、大きな理由のひとつは「主語がなくても通じる」ということです。
たとえば英語でも必ず主語「I」「We」と「you」「them」などの対象語がセットになって使われます。
「私」「私たち」という自己存在が必ず明示されます。そうでないと言葉として成立しないようになっているのです。
一方日本語はどうでしょうか?
例えば告白するときに「私はあなたが好きです。」と言うでしょうか?
まぁ、言っても良いのですが何か片言の日本語のような感じがしますよね。
誰が? 誰を好きなの? とか聞くのは無粋でしょう(笑)。
「好きだ。」「好きです。」と言うのが自然ではないでしょうか。
同じように、例えば好きなアーティストのライブに行って
「私はこのバンドの曲を聴くと感動する」
というより
「イイよね〜」
という方がしっくり来るのではないでしょうか。
言わば敢えて「私」「あなた」という壁を設けないことによって、お互いが溶け合うような心理状態を生み出す。
そのような共感というか“共鳴”するような状態が、日本語独特の居心地の良さを感じさせるのではないかと思います。
もちろん、それは居心地の良さだけではなく、他者の痛みや苦しみを自分のことのように感じられる優しさにも繋がっていると思います。
主語なし表現だからこそできる表現
さて、先程のドラマの1シーンですが、面白いことにここには全く「主語」が存在しないのです。
誰が、誰と、なぜふるさとへ行ったのか。その具体的な描写がまったくない(あ、「父親と」とは言ってますねw)。
「そんなの流れで分かるじゃんww」って言われるかもしれませんが、これって実は凄いことなんですよ。
先程も書いたように日本語以外の言語では「主語なし」は通用しません。
「Went to my hometown with father.」と言ったところで「What???」と返されるだけでしょう。
でも、ここで敢えて主語を入れずに淡々と語ることで、朝顔と上司の距離がぐっと縮まるというか、むしろ上司もまた朝顔と一体になったように、その苦しさに共感することが出来ます。
それは視聴者の私たちもそうで、「私」と「他者」を明確に区別する主語がなくなることで、主人公・朝顔の苦しみを自分の苦しみのように追体験することができる。
だからこそ「・・・そうですか。」としか言えない上司の辛さも理解できるし、肯定も否定もせず朝顔の辛さを受け入れようとする上司の優しさにも共感できるのです。
脚本家がそこまで考えてこの台詞を選んだのかは分かりません。
ただ、「主語なし」で会話が成立する日本語だからこそ表現できる“他者との共感”という奥深さが、このシーンには込められているように思いました。
日本人には「個の確立」が必要か?
日本では戦後「個の確立」が過剰に重視されてきたように思います。
「周りに流されるな」
「自分の意見を持て」
「個性が大事」
そんな言葉を誰もが“耳タコ”で聞いてきたのではないでしょうか。
確かに「周りに流されるだけで自分で考えて行動できない」というのは、一見良くないことのように思われます。
でも、本当にそれは「日本人の駄目なところ」なのでしょうか?
ケースバイケースだとは思いますし、ビジネスシーンなどでは自ら責任を背負って決断しなければならない時もあると思います。
ですが、個の確立というのは一方で自分と他人を明確に分けるということに他なりません。
それは英語のように常に「I(私)」はどう思うか。「You(あなた)」はどう考えるのか、をどんな時にでもきっちりと線引する考え方です。
もちろん、それが悪いことだと言うつもりはありませんが、彼らは「God (神)」と宗教によって明確に繋がっているから、そこに存在の基盤を置いているから個人として成立させることができるのです。
しかし、日本人はそれと同じレベルで「God (神)」と繋がっているという人はめったにいないと思います。
そんな中で「自分」と「他者」を明確に区別する個人主義を推進すれば、「自分」の存在意義を支える物がない、世界に漂流する孤独な“私人”にしかなりえないのではないでしょうか。
やはり日本人は一神教の「God」ではなく、周りの人々や自然との関係性の中で共感を持って生きる方がしっくり来るように思うのです。
普段意識している人は非常に少ないと思います。
ですが、少なくとも今回の朝顔のシーンが成立するということは、他者の気持ちに共感しあえる感受性の豊かさこそが私たち日本人を形作っているんだという認識が、無意識のうちに広く共有されているからこそだと思うのです。
だからこそ日本人は他者に対して格別な優しさを持って接することができる。
その日本人の良さのもう一度見つめ直すことこそが、実は「個の確立」よりも大切なことなのではないでしょうか。
今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆
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