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ダンジョンバァバ:第10話(前編)

目次

その赤ら顔は日焼けか、あるいは酒か。暑苦しい男たちでごった返す、埠頭高台の青空酒場。まだ太陽が真上で輝いているにも関わらず、テーブル代わりに並べられた樽のほとんどが占領されていた。見晴らしの良い一画の樽に陣取ったセラドとルカは、海から吹き付ける潮臭い風を浴びながら、乾いた喉を癒している。先ほどまで背嚢から聞こえていたホーゼのイビキは、客たちの喧騒にすっかり掻き消されていた。
「クゥーッ! 久しぶりのセイシュ、たまんねーな」
「……美味いのか、それ?」
言葉少なに山羊の乳を飲んでいたルカが、目を細めてセラドの手元を見た。木製の四角い容器。そのなかで揺れる、無色透明な液体。
「おう。これはヴィ=シャンでしか作れねぇ酒でな。エールや葡萄酒に比べりゃ随分と値が張るが…… この独特な香りと味わいがクセになる。コメが原料ってんだから驚きだ」
「詳しいんだな。ここにはよく来たのか?」
「いんや。数回かな? 酒のウンチクは行商人の受け売りさ。ストロームでたまーにありつけたんだ。保存の問題でヨソじゃ滅多にお目にかかれねーのが残念……」
飲んでみるか? と促され、口をつけたルカが顔をしかめる。その肩向こうを見やったセラドが、大声で手招きした。
「おいこっちだ! ヘップ! ……あの顔じゃ、アイツらも空振りだな」
ルカが振り向く。コップを持ったヘップとサヨカが、器用に酔客を避けながら近づいて来た。ヘップは近場に転がっていた木箱を手繰り寄せて足元に置き、樽の縁からヒョッコリと顔を出す。
「ハァ。ダメでした」
「……ったくどうなってやがる。船乗りの野郎、島の話をした途端にアーダメダメ、アーソリャムリ。カネはたっぷり払うって言ってんのによ。口を揃えてお断り。理由すら言おうとしねぇ」
「ええ。それでオイラたち、漁師にもけっこうあたったんですよ。小さい船なら融通利かせてくれるかなって。でも全滅」
ヘップは力なく首を横に振り、海の方へと視線を彷徨わせる。
小さな村ひとつがスッポリと収まりそうな、広い広い埠頭。埋め立て整備された石敷きの陸域から青い海へと伸びる巨大な桟橋は、全部で5基。今はそのうち3基に大型船が停泊しており、荷の揚げ積みを担う港の男たちや船夫、護衛を引き連れた商人らが、忙しなく動き回っていた。その大半は人間族だが、こうして全体を見渡してみれば肌や髪の色、船の外形、積み荷…… 何もかも一様でないことが分かる。

(かつてトンボさんも、この港に……)

そして桟橋からやや離れた岸壁に目を向ければ、大小を問わずひしめき合うように係留された漁船の群れが見える。早朝の水揚げを終えた漁師たちは道具の手入れを終え、すでにこの青空酒場で酒盛りを始めていた。

「ブンどっちまうか。小さいやつ。ちゃんと返せば……」
セラドがぽろりと呟く。女性2人が咎めるような目でセラドを睨んだ。
「ダメですよセラドさんー。ドロボウはよくないですー」
「アタイは嫌いだねそういうの。漁師だって生活がかかってる」
「んだよ善人ぶりやがって。大陸の命運がって時によぉー」
「そもそも」
無言でエールを飲んでいたヘップが遮った。
「オイラたちの中で船を操れる人、います?」
全員が黙る。
「……いませんよね。漁師がポロっとこぼしたんですが、無人島はここから近いといってもけっこうな距離があるそうです。素人がどうにかできる話じゃなさそうですよ」
「ソノトーリッ!」
「うおっ!? あっ、ちょ、酒が、オレの」
背後から突然声をかけられ、セイシュが樽の上にこぼれた。セラドは慌てて口を尖らせ吸おうとするが、劣化した木材に浸みこむ方が速かった。
「ッ……もったいねーなぁ! 誰だコラァ!」
拳を握り締めて振り向く。が、誰もいない。
「下、下」
声につられて下を見ると、ボロ切れをほっかむりにした何者かがセラドを見上げていた。年季の入った革鎧を着て、薄汚れた布ズボンを履き、細長い棒を背負っている。一見すると少年のようだが…… その顔つきと黄緑色の肌は、どう見ても人間ではなかった。
「……カエル?」
「ホッホ。フロルグですな。珍しい」
いつの間にか目を覚ましていたホーゼが、ルカの背中から顔を覗かせて言った。
「フロルグ? ジジイの手記に出て来たアレか」
「わー、初めて見ましたー。カワイイですねー」
「ハ? 可愛い? 冗談言うなヨ。カエルが2本足で立つなんて」
ヘップは樽の横から顔を出し、自分よりやや背の低いその生き物を油断なく観察する。誇らしげに胸を張って鳴き袋を膨らませていた蛙人族は、全員の注目を十分に集めてから一歩下がり―― 仰々しくお辞儀をして見せた。
「ドモ。アッシの名はトビー。決して怪しいモンじゃありヤセン」

―― ここはカナラ=ロー大陸の交易拠点、港町ビスマ。モリブ山でバテマルがグレート・フォージに向き合いはじめた頃、5人は船探しに奔走していた。かつて厄災と戦った6人の ”戦士たち”、その最後のひとりに会うために。

◇◇◇

第10話『港町の蛙、無人島の猫』(前編)


「騙そうってんならその首、一瞬で飛ぶからな。何色の血が噴き出すか」
「ケケ。赤ですよ、ダンナ」
先頭をゆくトビーは怯える様子もなく、人間と変わらぬ足つきで細い路地を進んでゆく。高台の青空酒場から海の方へと続くなだらかな坂を下った先の、住居区画。隙間なく建ち並ぶ木造住宅はお世辞にも立派とは言えず、時折見かけるのは老人か子供ばかり。
「怪しいもんだね。こんな狭い場所をコソコソ、くねくね歩いてヨ」
「ご安心くだセ。オーガの御夫人」
フードとスカーフで素性を隠していたルカの瞳に警戒の色が浮かぶ。トビーはそれを察したかのように振り返ると、下瞼を動かしてウィンクした。
「オエー」ルカが身震いする。
「ケケ。アッシはね、詳しいんです。まだ尻尾がついてるガキの頃、賢者サマからいろーんな話を…… っと、この話は長くなりヤスんで、また。今は急ぎヤシょう。組合のヤツらに絡まれたら面倒、面倒」
「組合? 船乗りのか」
「エエ、エエ。交易組合。ヤツら結託して港を仕切ってるんでサ。その息は漁師にも」
「そりゃまあ、自治権が認められているからな」
セラドは、かつてストロームで教わった昔話を思い出していた。大型船の登場で急速に発展した港町ビスマ。自国領に吸収すべく交渉、派兵を繰り返したストローム王国。屈強な船乗りたちによる抵抗。悪政による交易の不自由を懸念した別大陸商人の援護……。
「おや御存知で? エエ、エエ。確かに荒くれ者が多いんで、守るべきオキテやシクミってのは必要です。ですがね、それも度が過ぎるとね、全くヨロシク無いんでサ」
トビーは歩きながら大袈裟に肩を落とし、ケロロ……と鳴いた。
「皆さん言ってましたねー。”ダメダメ! ダメって決められてんだ” って」
サヨカは船乗りの真似をしたかったのか、強面を作りながら低い声で言った。
「エエ。みんなね、逆らえねぇんでサ。ダンナたちが行きたいってあの島にゃ、何十年か前から猫人族が住みついてヤシてね。物々交換目当てでちょくちょくビスマに姿を見せるようになって、船乗りの間じゃ ”猫島” なんて呼ばれて。……で、アイサツも無く勝手してるのが気に食わねぇって話で、当時の組合長が手下をたーくさん引き連れて追い出しに行ったんでサ。それがイヤなら組合にカネを納めろってね。もともと無人島ですよ? 猫サンはなーんも悪いコトしてヤセン。組合の上のモンたちが調子コイてたんでサ。オレたちは大国ストロームとやり合える! ツヨイい! エライ! てな感じでね」
「で、返り討ちにあった、と」
トビーはどこか嬉しそうに、二度、三度と頷く。
「5回行って、5回ともズタボロで戻って来て、組合長のバカ高いプライドもズタボロ。それから猫サンたちは出入り禁止。ヤツら好きなんでサ、出入り禁止。さらにゃコッチからの渡航もゴハット。口に出すのもダメ。存在そのものを無かったコトにしちまおうって魂胆。……で、今はその息子が後を継いでるんですが、2代続く逆恨みってのは恐ろしいモンでね。ヒラの船乗りたちにしてみりゃどーでもいい話なのに、バカな組合長一派だけがいつまでも――」
饒舌だった口を閉じ、トビーが立ち止まった。背中の棒を抜いて両手で握り、数ヤード先の突き当りに向けて牽制の構えを取る。ヘップはいち早くダガーを抜き、後方を睨んでいた。

「組合の悪口はその辺にしとけよぉ? クソガエルのトビィー」
進行方向の路地から、いかにもガラの悪そうな男が4人。退路を断つように、背後に4人。セラドとルカは、サヨカを挟んで前後を見据える。ギィ、バタン、ガチャリ。家々のドアや窓が閉まる音。
「まーたコソコソと商売しやがってぇ。勝手なことされたら困るんだよなぁ。俺様が叱られちまう」
ひときわ体の大きい坊主頭が不敵な笑みを浮かべ、己の肩を鉈でトン、トン、トンと叩く。
「ケケ。思ったより早い御登場で。この一件、自由にやらせてもらいヤスよ。アンタら組合ともナシがついてる」
「アー? それとこれとは別。別! 別よ。あの島は別! ……オイ、しつこく聞き回ってたのはそこのテメェらだな? ったく、めんどくせぇ。怪我したくなきゃ酒でも飲んで、土産買って、大人しく故郷に帰りな」
「「ああ?」」
セラドとルカが殺気立つ。男たちが一瞬怯む。トビーは慌ててセラドを制し、囁きかけた。
「ダンナ、これはアッシの問題。お任せを。前の4人をとっちめるんで、すぐに走ってください。突き当りを右、左、右、あとは真っすぐ行けばアッシらのドックが。そこまで行きゃぁヤツらも手が出せヤセン。一足先に向かった仲間がいるんで話は通じヤス」
「誰の問題かなんて関係ねーな。売られたケンカは買わねぇとよ」
セラドは好戦的な目を前方に向けたまま答える。トビーはほっかむりを取り、水かきのついた5本指をセラドの腕に置いて目を細めた。
「ダンナらがやると、ウッカリ殺しちまいそうでね。アッシは今後もここで商売するんでサ。ああいうゴロツキと上手く渡り合いながら」
カエルの真剣な眼差しというものを、セラドは初めて見た。その意志は充分に伝わった。
「……やれんのか?」
トビーが頷く。
「ヘップ、どうだ」
セラドが小声で問うと、ヘップも頷いた。
「彼の言葉に従いましょう。セラドさんも万全じゃない。待ち伏せを警戒しながらオイラが前を行きます。あとは順にサヨカさん、セラドさん、ルカさん、一列で。もし後ろに追手が見えたらホーゼさんのスペルで妨害を。致命的なのはダメです。火も使わないでください」
背嚢から顔だけ出していたホーゼがニコリと笑う。
「さん付けはよせって言ったろ、リーダー」
「いやぁ、慣れなくって」
「オイコラァ! なーにコソコソくっちゃべってんだぁ!? 」
シビレを切らした男たちが、ゆっくりと距離を詰めはじめた。
「では、後ほどドックで。右、左、右、真っすぐです」
トビーは言いながら地面スレスレまで身を屈め―― 姿を消した。
「ホレェ! 大人しく武器を捨デッ」
バチン! と痛々しい音が路地裏に響いた瞬間、坊主頭は昏倒していた。超人的な脚力でひとっ飛びしたトビーの、空中旋風打ち。
「ケーッ!」
「なグッ」「ちょバッ」「ッ!?」
残された3人の周囲をトビーが跳ね回る。男たちはその動きを目で追うことすら出来ぬまま、鳩尾を突かれ、側頭部を打たれ、アゴを叩かれ、人形のように崩れ落ちた。思わず見とれていたヘップは気を取り直し、先陣を切る。続いた一行も男たちを踏みつけながら路地の奥へと駆けた。
「お、オイ! 待てコラ!」「テンメー!」
「させヤセンよ!」
トビーは残る4人に向き直り、振り回していた棒の先端をピタリと静止させた。男たちの足もピタリと止まる。
「オネンネしたい人からドウゾ」

◇◇◇

トビーに言われた通りに路地を進んだ一行は、町はずれに鋭くそびえる岩壁を目指し走っていた。その根元に穿たれた洞窟の入り口。番をしていた2名のフロルグが、一行に気づいて手招きする。
「サ、こちらへ」
片方のフロルグが入り口に挿してあった松明を手に取り、先導する。
「トビーさん、強かったですね」
ヘップの声が、狭く湿った洞窟内に響く。
「ああ。ありゃ只モンじゃねーな」
「ホッホ。フロルグの筋力と敏捷性は人間のそれを遥かに凌ぐと言いますからな。一方で慎ましく、禁欲的な性格の持ち主であるからしてモンクの道を歩む者が多いとか」
「へぇ…… モンク? 詩にも出てこねーな。初めて見たぜ」
「ドゥナイ・デンでも見かけたことありませんね」
「厄介な相手だヨ、モンクは」
ルカの声。セラドが首を回し、好奇心に満ちた目を向ける。
「ストライカーの親戚か?」
ルカは首を横に振った。
「違うね。全身を武器にするクラスって意味じゃ一緒だけど、殴る蹴るのストライカーとは戦い方がまるで違う。それにあの棒術。一度だけ人間のモンクと手合わせしたことがあるけどヨ、敵に回したくないね」
「へぇ…… なぁ、お前もモンク?」
先導役もトビーと同じく、背中に細長い棒を差している。
「エエ。そんな大したモンじゃねぇですが。…… ササ! 着きヤシたよ」
微かに聞こえていたさざ波の音が大きくなり、洞窟の視界が急に開けた。
太陽光が僅かに届く、大きな海蝕洞。透き通った海水は宝石のように青く輝き、細身の中型船を係留するに充分な幅と深さがあるように見えた。船をU字に囲むゴツゴツとした足場は水面より随分と高く、甲板に渡された板はほぼ水平。
「ホッホ! こりゃ見事ですな。天然の船渠」
「わぁ! 綺麗ですねー」
「奥にはワッシらが住めるように穴を掘って、設備を揃えてヤス」
案内役のフロルグが誇らしげに胸を張った。
「どのくらいいるんだ?」
出航準備に励む色違いの蛙人族たちを眺めながら、セラドが訊ねた。
「18です。うち船員は12。あ、仲間って意味じゃ、コッソリ協力してくれてる人間も町に何人かいヤスね」
「へぇ…… てかよ。海水、大丈夫なのか? ホラ、お前らカエル……」
セラドが気になっていた質問を投げると、フロルグはケロケロと笑った。
「問題ありヤセンよ」
「ホッホ。興味深いですな。船乗りのフロルグ……。ましてや人間を相手に大立ち回りするだなんて、意外や意外」
「エエ、エエ。……フロルグってのは根っからの臆病モンで、閉鎖的で、湖のほとりで心穏やかに暮らしたい…… そんな種族でサ。大半は今もそうしてヤス。でもね、ワッシらはガキの頃に賢者サマから教わったンです。この大陸には暑いも寒いも、潤いも乾きもあって、いろーんな種族が生きてる。その話がもう面白くって。だからここにいる18…… いやもっといヤシたが、ヒトリ立ちしてすぐに里を出たんでサ。ま、連れションってほどの仲良しでもねかったんで、みんなバラバラに旅だの修業だのって。その後はトビーの呼びかけで……って、トビーのヤツ、遅いね?」
ハッ、と我に返ったような表情を見せたフロルグはそのお喋りな口をパッカリと開けたまま、考え込んでしまった。

◇◇◇

「追い詰めたぞ!」「観念しやがれ!」「もう我慢できねぇ、ブッ殺しちまえ!」「殺すな! とっ捕まえろって命令だぞ!」
血走った目でトビーを囲む男たちの数は、今や20人近くまで膨れ上がっていた。路上のあちこちで白目を剥く10数名の男たちが加わるのも、時間の問題。健脚三角飛びで屋根に逃げる算段は、頭上から牽制する何本もの槍によって阻止されていた。
「ケケ。コリャ困った」
二の腕の傷から流れ出た血が腕を伝い、棒を握る手を滑らせる。

(時間は充分稼いだ。あとはドックにトンズラするだけ。全面的にコトを構える度胸なんざ組合長にゃ無いハズ…… しかしコイツらは? すっかり我を忘れちまってる。本気で反撃したらアッシも無事じゃ済みヤセンね……)

トビーが長い舌でペロリと掌を舐め、構え直したその時。
「グェッ」「オゴッ」
上から不意に、呻き声。左右の屋根から男たちが降ってきた。下にいた全員が目を細めて振り仰ぐ。太陽を背にした黒い人影が、左右の屋根にそれぞれひとり。腕を組み、凛とした姿勢で立っている。
「行け」
一方の影が、トビーに顔を向けて言った。トビーは決断的に家屋の壁を蹴り、屋根の上に飛び乗った。黒装束に黒頭巾の存在が、鋭い目で男たちを見下ろしている。
「どこのどなたか知りヤセンがこの御恩、必ず」
「あの旅人たちを無事に島へと送り届けよ。それで貸し借り無しだ」
その人影―― ニンジャが下を睨みつけたまま、小声で言った。
「ケケ。承知! ロクでもねぇヤツらですが、殺生だけは勘弁を」
トビーそう言い残して屋根から屋根へと飛び移ってゆく。
「アッ!」「オイコラ待て!」「クソ! 逃がすな!」
あまりに一瞬の出来事。立ち尽くしていた男たちが、トビーを追うべくドタドタと走る。静かに着地したニンジャが、その正面に立ちはだかった。
「ドケコラァ! 死にて――」
先頭を走っていた男が、棍棒を振り上げたまま体をくの字に曲げて、真後ろに吹き飛んだ。巻き込まれて将棋倒しになった男たちの悲鳴と罵声が飛び交う。迂回しようと後方を見た男は、背後に立つもうひとりのニンジャの冷たい目を見て狼狽えた。
「邪魔すんな!」「て、てめぇら、アイツらの仲間か!?」
「……はて? 知らんな。ただの通りすがりだ」
ニンジャは首を傾げ、ぞっとするほど低い声で言った。
「ワシらは稽古が好きでな。お主らは体格も良し。血の気も十分。……どうだ? ひとつ付き合ってくれぬか」

◇◇◇

準備万端のドックにトビー船長が戻り、留守番6名に見送られながら出航したその日の夜。一時は驚異的な筋力でオールを漕いでいた10名も、今は冷たい海上風に撫でられながら寝息を立てていた。フロルグの船は商船に使われる大型帆船よりも随分と小さく、細身で、定員は30名ほど。機動力の確保を目的に、漕走と帆走を両方採用している。

トビーは船首に立ち、夜空を眺めていた。
「眠らないんですかー?」
澄んだ声に振り返る。サヨカが一歩一歩慎重に足を前に出し、近づいてきた。
「おやエルフの御嬢サン。初の船旅、御加減は大丈夫で?」
「はいー。平気です。何してるんですかー?」
出航して数刻後、ルカは船酔いにやられて寝込み、大海原を見て気を大きくしたセラドはしこたま酒を飲んで轟沈した。
「エエ。星の位置とね、海の様子を。順調、順調。明日の朝には島に着きヤスよ」
「おかげで助かりました。でも…… 疑わなかったんですかー? 私たちのこと。組合の罠だー、とか」
サヨカは言いながらトビーの隣にしゃがみ込み、船縁に両肘をついた。翡翠色の長い髪が風に流され、そばかす混じりの横顔と長い耳が露になる。
「ケケ。……商売相手を見る眼力と偵察力には自信がありヤシてね。ゴタゴタに巻き込んじまってスイヤセンでした」
「そんなそんな。私たちのために怪我までさせちゃって…… ちょっといいですかー?」
サヨカがそっとトビーの二の腕に手を伸ばし、血の滲んだ包帯をほどいてゆく。
「こんなモン、舐めときゃ治りヤス。フロルグは再生力が自慢なんで」
「だめですよー。菌が入ると大変です。熱、痙攣、死んじゃうことだって」
治癒者の顔で言い聞かせ、傷口に掌をかざしながら短く詠唱する。
「ケロ…… こりゃスゴイ」
「ハイ、これでよし、っと。無理すると傷が開きますから、気をつけてくださいね。……あの襲ってきた人たち…… 酷いですね。トビーさんたちは人助けしてるのに」
「ケケ。商売なんでキッチリ渡し賃は頂きますケドね。邪魔されるのは慣れっこでサ。今日はチィとばかしオオゴトになっちまいヤシたが……」
トビーはつるりとした黄緑色の頭を撫で、ケロリと笑った。
「怒ったり憎んだり、恨んだりしないんですか?」
「エ? ……そうでサねぇ。今は。今はね。……むかーし、見せしめにアッシの幼馴染が殺されたんでスよ。そんときゃあもう頭に血が上っちまって、抗争じみた衝突に発展しヤシた。……でもコッチはコッチでね、お嬢サンには言えないような勢いで報復して…… お互いサマってヤツでサ」
真剣な眼差しで耳を傾けるサヨカを和ませるように、トビーはまたケロリと笑った。
「お嬢さんって年じゃないですよー? あと名前はサヨカです」
突然ズイ、と顔を近づけられ、トビーが一歩後ずさる。
「おっと。すいヤセン、サ、サヨカサン。年齢を伺うのはヤボってモンですが…… ウッドエルフってこたぁ、大戦の後に生まれたんでしょう?」
トビーはサヨカをしげしげと見る。人間で言えば少女と呼べそうな、あどけない顔。今日出会ったばかりのエルフは、そんな印象だったはず。しかし今は……。
「……8歳でした」
サヨカは暗い海に視線を移し、その水面に過去を見た。
「大好きだった父は、私の目の前で死にました。優しくしてくれた祖母も、叔父さん、叔母さんも、共にタリューの美しい森や泉で遊び駆けまわった友達も。みんな死んでしまいました。みんな、ブラッドエルフに殺されて。……あの時の私は何が起きているのかも理解できずに、ただただ母の腕の中で…… 嵐が過ぎ去ることを願うしかありませんでした」
「御辛かったでしょう」
サヨカは肯定も否定もせず、水面を見ている。
「全てが終わったあと、母や同胞のエルフたちはタリューを捨てました。捨てるしかありませんでした。……エルフのほとんどは、外の世界を知りませんでした。慣れぬ旅。多種族とのいさかい。貧しい暮らし。また大勢が死にました。母も。私たちのように成長期を迎える前の幼子や、新たに生まれた子らは、新しい環境に適応していきました」
「ウッドエルフ……」
サヨカが小さく頷く。
「やがて成長し、事実を認識した私は、……私は、復讐に走りました。父を殺したブラッドエルフは大戦で死にましたが、その息子は英雄扱いされ、タリューでのうのうと生きていました。彼には娘がいました。血族2親等に及ぶ代償。全員ブラッドエルフ。金色の髪。赤い瞳。触れた者を傷つけるほど鋭く尖った長い耳。親子三代、顔がよく似ていました。とても。私は我慢なりませんでした」
「――が、思いとどまった」
「……どうしてそう思います?」
サヨカは切れ長の目を丸くし、トビーを見た。トビーは濃緑色の瞳に向けて答えた。
「世界中を旅したアッシにゃ分かるんです。サヨカサンの目はね、復讐者の目でも、復讐を遂げちまったモンの目でもねぇんで。他人思いの…… 優しさに溢れた目でサ」
サヨカは唇を震わせ、うつむいた。
「あれー。ごめんなさい、変なコト話しちゃって。話したコトないのに。おかしいな。ウフフ―」
「いいんでス。そんじゃサヨカサン、アッシね、皆さんの旅について気になってるコトがありヤシて。差支えなきゃ是非、是非、知りたいんですが……」
「なんですか? なんでも教えちゃいますよぉー。私もいろいろ聞きたいですー」
サヨカは鼻をすすりながら顔を上げ、長く美しい人差し指で目尻を拭うと、いつものように微笑んだ。
「ケケ。そんじゃ、あったけぇ葡萄酒でもやりながら、どうでス?」
「ウフフ。いいですねー」

後編に続く

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