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貧困ぬけ〜貧困層を抜けた人の話〜vol,2「ディスレクシア」

私はLD(Learning Disability)所謂学習障害です。そしてディスレクシアです。
私がLDになったのは育った環境にあると私は考えています。
発達障害という言い方が伝わりやすいのではないかと思いますが、人には様々な能力があります。1人の人間の成長においてその全てを伸ばすことはできません。そして全てを伸ばすということに拘ることには全く意味はないと考えます。
一人の人間が成長において伸ばすことができる能力は教育や環境に左右されます。スポーツが得意な人はスポーツの能力は教育によって成長させることができました。でも私の周りでは、スポーツが得意な人は勉強が極端に苦手です。私はアーティストですが、同じように勉強は苦手です。スポーツ選手でも、その人の専門にする競技の能力は伸ばせていても、他の、全く訓練していない競技になると素人以下です。訓練せずに、神経、脳、筋力を養うことはできません。ボールをつかんだり、投げたりする能力はそれを反復して練習することで初めて養われるものです。練習せずにある程度できる人は、それまでにそれに近い神経、脳、筋力の使い方をしていたことがあるにすぎません。

私は殆ど記憶のない広島から、次は岡山に行きました。(vol,1から続いています)
私が岡山に行ったのは小学校に入る前です。小学校に入る前の記憶もやはり、ほとんどありません。一昨年、45歳の時に39年ぶりに岡山に行きました。教え子が‥。因みに私は今美術の予備校を経営しています。その予備校を立ち上げた時、というか立ち上げる前の絵画教室の時の生徒が、つまり、自ら経営する学校で初めての大学合格者の彼が広島の大学に合格して行ったので、卒業までに一度会いに行くと約束しており、その約束を果たすために、入試の合間をぬって愛車のAMGの屋根を開けて埼玉県熊谷市から広島まで突っ走って行ったのでした。この話はまたおいおい。

1人の人間の能力には環境的要件に完全に応じた限りがあります。
ここで大切なことは、「才能」は全く関係ないということです。そして貧しい家庭の子供程、「才能神話」信じ込まされています。才能は全く関係ありません。関係ないという認識から改めて全ての物事を見直して、考え直して、丁寧に捉え直していくことがとても大切です。
「才能神話」は努力しても仕方がない、という錯覚と論理を生みます。そこで納得させられてしまう。貧困層、低所得者、そして中所得者の多くは環境に恵まれていません。それを総じて納得させてしまうのは「才能神話」です。
「才能神話」は所得の低い人をそこに落ち着かせるための高所得の人の誰かが考えた都合の良い論法です。

私は美術予備校で未来のアーティスト、大学教員、企業で活躍するサラリーマン、経営者を育てています。彼らに私が美術予備校ですることは、世界に通用する技芸を指導すること。東京藝術大学を目指す生徒には世界に通用する手前か通用する所まで、私大を目指す生徒には世界に通用する技芸を養うために必要な基礎を指導します。

「世界に通用する技芸を身につけさせる」という目標を抱えた時に重要なことがあります。それは、生徒全員が全く未発達の部分が必ずいくつもあり、それを見つけ出し、育てることが必要だということです。つまり、美術に興味のある生徒ですから、始める前に、自分が向いているかな〜と思えるような能力は始めからいくつかあります。少なくとも興味関心は持ってきている。彼ら、または彼らを進めた親御さんや先生は向いている部分は見えていても、それ以外のことの多くを認識していません。そうすると「才能神話」を信じてきている生徒ほど、出来ていない部分に対しての気づきが遅くなる傾向があります。まあ‥それでも上手く導入していきます。

一流のアーティスト、学者、スポーツ選手などなど、間違いなく言えることは未発達の部分を持っているということです。私の眼から見てわかりやすいのは、美術の技芸に関しては、学者、スポーツ選手などなど全員が未発達です。それは手にとるようにわかります。そして、彼らの多くは「才能がない」と認識しています。でもそれは間違いです。「才能」は関係ない。教育すれば確実に育つ「能力」です。

貧困層、低所得、中所得の家庭の皆さんには未発達の能力を世界に通用する一流の技芸にまで高める機会や環境が多くの場合ありません。高所得者の家庭にはそれがあります。その差の要因の多くはお金の問題です。それは間違いありません。でも1つ言えることがあります。お金よりも大切なことは「才能神話」を捨てることにあります。つまり、お金のことでさえも、実はそれほどかけなくても一流で世界に通用する技芸、また、勉強して能力を身につけることはできるのです。
一番の問題はそれまでに、能力を身につける経験をしてこなかったせいで、やる前から諦めることです。

私は、大体の毎日ランニングしたり、ジムに行っています。これは気持ちに余裕が持てて初めてできることです。ランニングやジムに行くこと自体は難しいことではありません。他の例で言えば、勉強するために椅子に座って参考書を開いて、眼を通すことはそれ程難しいことではありません。でも、多くの人にそれを困難なことにしてしまうのは、「才能神話」からくる「諦め」の論理が頭に浮かぶからです。できるとわかれば皆さんやりますよね?。
私が動かしたいのは世の中のここの部分です。

私がこの文章を書いているのは、「才能神話」を壊し、「諦め」の論理を消すことで「貧困ぬけ」ができることを世の中に伝えるためです。
お金をかけずに「貧困ぬけ」することは可能です。逆にいたずらにお金をかけても「才能神話」が崩されていなければ意味がありません。
今、国は修学支援を始めました。それはそれで大事なことです。でも、国の行う「貧困ぬけ」の方策は、簡単に言えばお金のバラマキです。勿論、このバラマキも低所得者家庭の子供に対しては必要です。高所得者家庭の子供に与えられる休養(Schoolの語源には休養という意味があります)を与え、一定期間仕事に就かせず、学校に通う機会を与えることは重要です。でも、その先に「才能神話」を壊す手立てを講じることが不可欠なのです。

という訳で、私が岡山に行ったのは小学校に入る前です。
岡山にいたのはそれから小学校2年生まで。
私がディスレクシアになったそもそもの原因がここにあると私は考えています。つまり、人に触れて言葉を交わし、自分の中に人としてのあたたかさを養い、様々なことを学ぶ機会と環境が当時の私にはありませんでした。

私のかすかな記憶の中で私は当時母親と引き離されることになります。

続く


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